量子の導き 2

大きな変化というものは突然にやってくるものだ。世界中の人々が今日の朝のニュースを聞いて驚いたことは間違いない。

今日から世界の共通言語は英語となった。インターネットやテレビ放送などで英語以外の言語を用いる場合は、必ず英語の訳も同時に表示させることが義務化された。

十年前に、国境がなくなって世界が一つの国になったときにはかなりの議論が世界中で巻き起こっていた。各地で暴動が起き、テレビでは毎日のように国境をなくすことについての是非が論じられていた。

しかし、人間の興味関心、特に興奮などはそう長く続くものではない。国境がなくなった今、いつまでもとやかく言っているよりも、未来についての建設的な議論をすべきだ、という風潮が次第に広まっていった。そして、国境のない世界が当たり前だとみなが思うようになるまでに、そう時間はかからなかった。

今回は、突然の発表にもかかわらず特に反対勢力の動きも見られないようだった。それもそうかもしれない。流れに逆らうことがいかに無意味か思い知らされてしまったのだろう。

世界中のメディアが今まで、国境と言語の多様性によって人類がどれほどの損失を被っているのか、それらがなくなった世界はどれほど素晴らしいものか、明瞭なデータとともに小学生にもよく分かる論理で説明を繰り返していた。

これほどまでに大規模かつ長期間の刷り込みを行えば、きっと猿でもそうだと信じてしまうに違いない。事実、十年前の彼らの予測はどれも正しかった。

「ハロー、ミスターそうくん」

わざとらしい英語で友樹が話しかけてくる。

「なんだよ、お前」
「あら、今日は記念すべき日だというのにずいぶんご機嫌ななめじゃないか。創ももらっただろ、給付金、じゃなかった、ぺいめんと? だっけ」

言語の統一化によって見込まれる利益が、非英語圏のすべての国民に先んじて配布されることはニュースで知っていた。学生にとってはかなりの金額がもらえるだけに、この統一化に異議を唱える学生は皆無だろう。

「お前はこれから英語がんばんなきゃな」
「ほんとマジでそうなんだよな。英語が一番苦手」

友樹はなぜか英語が苦手だった。今どき小学生ですら日常会話レベルの英語は難なく話せるこの時代に、進学校で友樹のような存在は珍しい。

「というかそもそも、言語を統一する意味あるのかな」
「そんなことを言ってるのはこの地球上で友樹くらいだろ。ちょっとネットで検索すればいくらでも統一するメリットが出てくるじゃん」
「まあそうなんだけど」

学校の話題は今日のニュースのことで持ちきりだった。あちこちで英語がどうの、給付金がどうの、と聞こえてくる。授業がはじまるぞ、ほら、席につきなさい、と目のクマが目立つ担任が控えめにみんなに声をかけている。

俺は、この世界が疎ましくて仕方がない。なぜなんだろう。どうして俺だけが、こんなに鬱々とした気分なのだろうか。楽しそうに会話を楽しむまわりのヤツらがとても遠くに感じてしまう。

そのときだった。左手に激痛が走った。なんだこれは。痛すぎて声も出せない。意識が薄れていくのを感じる。目の前が真っ暗になっていく。漠然とした不安と激痛の記憶だけが、残像のように心に残っていた。

目を覚ますとそこは保健室だった。どうやら俺は気を失っていたらしい。すぐ隣には友樹がいた。

「よう、元気か」

今まで意識を失っていた人間に元気かはないだろ、と思いながらも、友樹がいてくれてホッとしている自分がいる。

「元気なわけないだろ」
「俺がいてよかったな。もし俺がいなかったら今頃雑巾野郎に殺されてたかもね」
「ありえる」

ふたりは笑った。あ、今日初めて笑ったな、そんなことを思ったときにふと、左手の激痛を思い出した。あれはなんだったんだろう。

「お前が気絶している間に、世間はすごいことになってるぞ」

端末を操作しながら友樹は答える。

「言語が英語に統一される話?」
「お前エスパーかよ」
「え?」
「なんか一年後、世界中の言語が英語に統一されるらしいよ」

一年後? どういうことだ。言語の統一は今日行われたはずだ。しかし、友樹がふざけているようには見えない。こいつはふざけるときにはもっとあからさまにやるタイプだ。時計を見ると、気絶していた時間はほんの十分ほどのようだ。急いで自分の端末を操作し、友樹が話す内容の真意を探る。

驚くべきことに、どこにも言語が英語に統一されたニュースは存在しなかった。