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幸せに生きるために

認知症になってしまったおばあちゃんと話をしていて、少し思うことがあったのでここに書いてみます。

幸せに生きるためには「死ぬ覚悟」が必要なのではないか、というお話。

私のおばあちゃんはとても元気な人でしたが、ここ何年かで認知症になってしまいました。そのため、おばあちゃんはいま施設のお世話になっています。

まだかろうじて自分の息子のことは覚えていますが、20年前くらいに死んでしまった自分の旦那さんのことすらほとんど忘れてしまっているようでした。

ひ孫の顔を見たときには嬉しそうにしていましたが、ふとしたときにとても寂しそうな顔をするおばあちゃん。

「もう死にたい」

自分の旦那さんのことも思い出せず、自分一人では満足に生きることもできない。そんな現実がどうしても辛いそうです。

もちろんおばあちゃんの悲しみはとてもよく分かります。自分も同じ境遇に立ったら、同じように悲しむでしょう。

でも、何か違和感を感じる自分がそこにはいました。

このおばあちゃんはほんとうに不幸なのでしょうか?

よく考えてみれば、このおばあちゃんはとても幸せな人生を生きてるのではないだろうか?

あまり詳しくは知りませんが、おばあちゃんはおじいちゃんのことがとても好きだったようです。

そんな大好きなおじいちゃんと、ほんの 20年ほど前まで幸せに暮らしていたおばあちゃん。

おじいちゃんの死後もたくさんの友だちに恵まれ、毎日のように友だちと温泉などに出かけて忙しそうにしていたおばあちゃん。

そしていま 80歳を超え、認知症といえども自分の足で歩けるくらいには元気なおばあちゃん。

息子には毎日のように世話をしてもらい、ひ孫の顔まで見ることができた。

こんな幸せな体験ができるおばあちゃんはそう多くないのではないか。

どうしておばあちゃんは不幸に見えるのか。

もちろん、私はおばあちゃんのすべてを知っているわけではありません。
おばあちゃんはもしかしたら、私の知らない大きな苦しみを抱えているのかも分かりません。

ですがわたしには

おばあちゃんには「死ぬ覚悟」がないから「不幸」なのではないか。
自分が幸せだと気づくためには「死ぬ覚悟」が必要なのではないか。

そのように思えてなりません。

ほんとうに死にたい人は「死にたい」とは口にしないそうです。「死にたい」というのは「生きたい」の裏返しです。

「死ぬ覚悟」について、たとえば以下のケースを考えてみてください。

あなたは何十年と連れ添った愛する妻(旦那)を交通事故で失ってしまいました。
自分の一番の理解者だったあの人はもうこの世にはいません。
今まで好きだったあらゆるものが、いまはもう、自分の心に何の喜びも与えてはくれません。
食事ものどを通らず、何のやる気も起きません。
悲しみに暮れる日々でしたが、あるとき自分の体の異変に気づきます。
おそるおそる病院に行くと、自身の体は実は癌に侵されており、余命はあと 1ヶ月しかないことを宣告されました...

もし皆さんがこのような状況に置かれたらどうしますか?

おそらく最初の 1週間は、人生の伴侶を失った矢先に余命 1ヶ月を宣告され、絶望的な気持ちになるでしょう。
どうして自分だけがこんなに辛い目に会うんだ。神様はいないのか。そう思うでしょう。

ですが、余命はたったの 1ヶ月しかありません。
あるときあなたはふと気づきます。
悲しんでいてもあと 1ヶ月しか生きられないじゃないか、と。

そしたら、妻(旦那)を失って悲しんでいる暇なんてないじゃないか。
とりあえず、残されたこのわずかな時間でできるだけのことをしよう。
いままで自分を育ててくれた両親にありがとうと伝え、友だちにさよならを言い、そしていい気持ちでこの人生に幕をおろそう...

これは私の勝手な想像です。
実際に自分がこのような状況になったら、こうは言っていられないかもしれません。

ですが少なからず、自分の不幸を嘆く人は 自分は永遠に生きていられる と思っているのではないでしょうか。

人生には誰にでも終わりが訪れます。
その日までに自分に何ができるのか、そうしたちょっとした意識の違いで見える世界が変わるのではないか。

そんなふうに私は思います。


Comments

1. 匿名 さん
[2019/03/09 13:52:23 JST(UTC+09:00)]

認知症の祖母をもっているので共感できる部分は多かったです。
終わりを意識した暮らしも意識しないといけないですね。

2. Fully Hatter さん
[2019/03/09 15:35:36 JST(UTC+09:00)]

> 匿名さん
コメントありがとうございます。
終わりを意識するのはなかなか難しいことですが、個人的にはとても重要なことだと思っています。

3. せる せろり さん
[2019/04/18 21:57:58 JST(UTC+09:00)]

こんにちは。
認知症とは一旦ずれますけど、幸せのために死ぬ覚悟が必要は同意です。
幸せって根源的には自分の人生のコントロールを自分がしていることの実感に他ならないと考える私にとって、恐怖、報酬、罰といった外在的なものに屈しないために、死の覚悟は不可欠なんですよ。これは、極端なこと考えていけば容易に想像つくことだと思いますけど。
認知症は世界からずれることで、現世のコントロールを離れる無意識的手段だと私は思ってます。ほんとうによく話を聞いていると、ちゃんと支離滅裂でないストーリーが浮かび上がるのを何度か目撃しました。この人たちに必要なのは、聞く相手だなと、今は思っています。
死ぬ覚悟を持つと同時に、社会で置き去りにされた人を生かす方面で仕事をすると、本当に死は怖くなくなる。なぜなら、絶望を知るからかもしれません。
最近、死んだ人というのは単に世界に居場所がなくなって去っただけだと感じるようになりました。自分もそういう去り方をするだけだろうなと。

乱文失礼しました。

4. Fully Hatter さん
[2019/04/30 20:57:18 JST(UTC+09:00)]

> せる せろりさん
『幸せって根源的には自分の人生のコントロールを自分がしていることの実感に他ならない』

まさにそうですね。
ちょっと本文からはずれますが、個人的には「異常者に監禁され、死ぬことも許されずに拷問され続ける」状態を最悪の状態と想定しています。
こう考えると、辛いことがあってもまだまだ自分は幸せだな、と思えます。

そして、自覚はなくとも上記のような最悪の状態にいる人はかなりの数いるような気がしています。
ブラック企業の社員なんかはまさにこの状態ですね。

『死んだ人というのは単に世界に居場所がなくなって去っただけだと感じるようになりました』

そうですね。
それが、一番望ましい終わりの形かもしれませんね。

5. ジーモ さん
[2019/05/01 00:13:36 JST(UTC+09:00)]

生きる意味や幸せとは自己満足なんじゃないかと今日考えていましたが、でも自己満足に浸っていると後々で後悔するんだよなあとも思いました。
マッチョになりたいけど、マッチョになるための努力ができない、そんな人生です。

6. Fully Hatter さん
[2019/05/06 14:20:36 JST(UTC+09:00)]

> ジーモさん
自己満足にもいろいろ種類があると思います。
心から満足しているのならば、その「自己満足」は良いことな気がします。

ただ、人間とは面白いもので、満足していると感じていてもその感情自体が自分で自分を誤魔化す口実だったりするものです。

自分が本当に「満足」できているのか、日々自分の心に問い続けることが大事なのかもしれません。

7. せる せろり さん
[2019/05/17 23:45:15 JST(UTC+09:00)]

こんばんは~

Fully Hatterさん
『「異常者に監禁され、死ぬことも許されずに拷問され続ける」状態』

精神的にはかなりこの状態に近いですね。
婦女暴行事件とか見てると被害者に同調してしまうので本当につらい。
そして世間はそういう人にとことん冷たいのを感じると、
本当に拷問に近いですね。
けっこう、この世界は異常者に満ち溢れていると思います。

8. Fully Hatter さん
[2019/05/21 18:16:22 JST(UTC+09:00)]

> せる せろりさん
おっしゃることはとてもよく分かります。
わたしもそのように感じていた一人ですので。

ただ、個人的には世の中はとってもいい方向に向かっているように感じています。

切羽詰まって絶望的な気持ちを抱いている人には想像もできないくらい非常に多くの人が、そのような不遇の人たちを救おうと動いています。
働き方改革やベーシック・インカムへの動きなんかがいい例ですね。

未来は、よくなる。
わたしはそう信じています。

どなたでもご自由に書き込んでください。
Fully Hatter が愛をもってご返事いたします。


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