量子の導き 3

分かったことがいくつかある。どうやら俺には過去を変える力があるらしい。二回目に過去を変えたのはその晩のことだった。

朝からいろいろなことがあったせいか、今日はひどくイライラしていた。自宅のマンションに着くと汚らしいガムが玄関の取っ手にこびりつけられていた。きっと誰かがいたずらをしたのだろう。

ふざけるな! そう思った瞬間左手にまた激痛が走った。またか。何なんだこれは。玄関の前でひたすら耐えるが、一向に痛みはおさまらない。

五分ほど経った頃にやっと痛みが和らいでいき、ホッとした拍子に全身の緊張が解けて地面に崩れ落ちてしまった。

気づくと俺は玄関の前でうずくまっていた。慌てて立ち上がって家の中に入る。気絶していた時間は十五分ほどのようだった。

「ただいまー」

家には誰もいないのだが、いつもの癖で帰ってきたときにはただいまと言っていた。小さい頃に学んだ寂しさを和らげるひとつの工夫だった。両親は小学生の時に死んでいた。

家の中を見回して見るが特に変わったところはない。端末を操作して何か変わったことがないか調べてみるが、例のニュースの内容も俺が知っているそれと同じ内容だった。午前中の学校での左手の激痛の後は奇妙なことが起こったが、今回はそのようなことはないのだろうか。

ふと気づいた。そういえば取っ手にガムはついていただろうか。

何度も過去を変えることで、自分の能力の概略が掴めてきた。この能力は感情が高ぶった時に左手を強く握ることで発動してしまうようだ。その結果、感情の高ぶりの原因に関連する事象の過去が少しだけ書き換わる。その過去がどのように変わるかはまったく予想できなかった。また、過去を変えるその代償として、能力発動中は例外なく左手を激痛が襲う。

できればこの能力はもう二度と使いたくなかった。使わないつもりだった。過去がどのように変わってしまうか想像もつかないし、その結果が必ずしも自分にとってプラスになるとは限らないからだ。

そもそも、あの激痛で心がいつ壊れてもおかしくない。心身ともに確実に俺は疲弊していた。しかし、感情が高ぶったときに左手を強く握ってしまうのは昔からの俺の癖だった。一刻も早くこの癖をなおさなければ。

「おい創、だいじょうぶかよ。顔色真っ青だけど」

友樹が心配そうに俺に話しかけてくる。いまゲームにハマっててさ、あんま最近寝てないんだよね、などと適当に嘘をつく。

その瞬間、左腕全体をあの激痛が襲った。なぜだ、俺の感情は高ぶっていないはずだ。今までとは違い、左手だけでなく二の腕までもが割れるように痛い。腕全体が串刺しにされているようだ。今すぐこの腕を切り落としてしまいたい、そんなことを考えながら意識が遠のいていくのを感じる。頭が真っ白になっていく……。

どうやら、感情が高ぶっていなくても左手を強く握るだけで例の能力が発動してしまうことがあるようだ。

今回は、ゲームなどしないはずの俺が昔からゲームにはまっていたことになった。家に帰ると確かに、存在しないはずのゲーム機とそのソフトが部屋に置かれていた。もちろん、その使い方ややり込んだ記憶も持っている。

この力はうまく利用すればとてつもないことを成し遂げられるだろう。

しかし、そうとは分かっていても俺には限界がきていた。度重なる激痛により髪の毛が抜け落ちはじめ、体重はこの三日間で五キロ落ちていた。どこにも余裕などなかった。

ただ、どうしても俺はもう一度過去を変える必要があった。どうしても変えたい過去が一つだけあったのだ。

自分が小学生だった頃に両親は死んだ。それは蒸し暑い夏の土曜日だった。

友達と一日中遊んだ帰り道、とても嫌な予感がしたのを覚えている。父は画家だった。いつも俺に、他の人と同じことはするな、独創性を大切にしろ、などと言い聞かせていたものだった。そんな、普通の大人とは違う父が俺は好きだった。家に着くとその父が、リビングで首を吊って死んでいた。

あまりの出来事に目の前の光景が理解できなかった。脳が現実を解釈することを拒んでいるようだった。俺はその場にへたり込み、じっと、天井から吊り下がっている父の姿を見続けていた……。

そこからの記憶はほとんど残っていないが、後で聞くところによると異変に気づいた近所の人が救急車や警察を呼んでくれたらしい。母はあまりのショックで行方不明となり、一週間後に海岸で水死体となって発見された。父の遺書があったことや母の事件直後の様子が目撃されていたことで、この件は父の自殺とそれを苦にした母の後追い自殺として処理された。

しかし俺は、父が自殺したとは到底思えなかった。

父は画家だったが、「芸術」を変えようと日々戦う革命家でもあった。父の活動により、一度は無くなった小中学校の芸術や音楽の授業が多くの公立校に再導入された。人類の最大の特徴は独創性だ、というのが父の口癖だった。そんな生き方をしていれば当然ではあるが、毎日のように相当なバッシングを各方面から受けていたようだ。それでも、そんなことは少しも父は気にしていなかった。気にしていないように見えた。それよりももっと大きなものを父は見ていたように思えた。

どうして両親を失わなければならなかったのか。父も母も、このつまらない世の中を少しでもよいものにしようと奮闘していただけなのに。自然に怒りがこみ上げてくる。

あと一回だけ過去を変えよう。そしたら、もう過去を変えるのはやめよう。
自分の怒りに集中し、左手を握った。

激痛がくる! そう思って目を閉じて全身を緊張させるが、痛みはない。手をきつく握りしめ続けるが、まったく能力が発動しそうな気配はない。確かに能力が発動する条件は満たされていたはずだった。なのになぜ、こういうときに限って発動しないのか。

左手の力を緩めて手を開くと、ツメが食い込んで手のひらから血が出ていた。