「お前さんの左手は魔法の左手なんだよ」
古い記憶が蘇ってくる。これはそう、おばあちゃんの声だ。
「そーちゃんがもしも本当に叶えたいお願いがあったら、こうするんだよ」
おばあちゃんが俺の左手をぎゅっと握りしめる。
「おばあちゃんも、このおまじないでおじいちゃんと結婚できたのよ」
そうなんだ。よかったね、おばあちゃん。
「でも、なんでもかんでもこのおまじないに頼ってちゃだめ。本当の本当に大切なお願いにだけ、このおまじないを使うんだよ」
うん、分かった、本当の本当に大切なお願いにだけ、このおまじないを使うよ。
*
世界では格差が急速に広がっていた。英語を自由に使えるものとそうでないものとの間の年収の差や社会的ステータスの差は日に日に広がっていった。
先日、アジアのある地域で暴動が起こった。暴動といってもそれは、多くの人にとっては反抗勢力の取るに足らない最後の抵抗活動でしかなかった。
英語は「簡単な」言語なのだから、少し頑張って覚えれば済むことではないか。そもそも言語が統一されるより遥か昔から、英語は世界中で使われていたではないか。現実に言語は統一されるべきで、英語以上に統一言語として適格な言語は他になかったはずだ。それなのに暴力で不満を訴えるのはどうかしているとしか思えない。
みながそう思ってた。
言語が統一されてからこの三年間で、裁判の件数は以前の十倍になった。婚姻の形態は法律で画一的に定められ、世界の離婚率は七割を超える勢いである。
たしかに経済的な成長は著しく、過去に例を見ない成長率を年々記録しているようだ。しかし、一般庶民にとっては日々の生活が豊かになっているようにはとても思えなかった。街にはチェーン店が溢れ、個人の商店街は全滅した。
*
これは何かが間違っているんじゃないか。心がずっとそう叫んでいた。でも気づかないふりをしていた。俺にはどうせ何もできない、そう自分で信じたかったのかもしれない。
友樹がいなくなった。
ここ一年で、英語を自由に話せない人たちへのいやがらせや暴力が世界中で当たり前のように起こるようになっていた。警察はこの件に対して黙認している、というよりむしろそれらの行為を助長しているようにも思えた。それと同時に、そういった人たちの原因不明の失踪事件が多発していた。
友樹もそれらの事件と同じように突然姿を消した。連絡はもちろん通じず、誰も彼の居場所を知らなかった。
なぜアイツがこんな目に目に遭わなきゃいけないんだ。俺には何かできたんじゃないか。言いようのない後悔が胸中を埋め尽くす。
俺が変えてやる、この腐った世界を。
だが、心の片隅で嫌な予感がしていた。過去を変える能力、これはもう使ってはいけないもののような気がしていた。直感がやめろと俺に告げている。もう何年もこの能力を使っていなかった。
でも、使うしかない。友樹が犠牲にならなければいけない世界なんて絶対に間違ってる。何を変えなければいけないかは分かっていた。あの日、言語が統一されたあのとき、すべてはそこから狂い出したんだ。
あんな日はいらない。
左手を渾身の力で握り締める。変われ! 脳裏にあの激痛が蘇る。これで最後だ。
……。
発動しない。
なぜだ、どうして発動しない! 前にもこんなことがあったな。そのとき気づいてしまった。気づいてはならなかった。
そうか。俺は「自分が一度変えた過去」は変えられないのか……。
*
それは蒸し暑い夏の土曜日だった。
俺は友だちとカードゲームをして遊んでいた。家が貧乏だったこともあり、俺が持っているカードはほとんどが友だちからの貰い物だった。そんなへなちょこカードの寄せ集めでも、少し頭を使ってデッキを組めばほとんど負けることはなかった。
でも今日は違った。新しく発売されたカードの中に、最新のカードがなければ対策が不可能な強いカードがあったのだ。友だちはみなその強いカードを持っていた。結果は惨敗だった。どんなに知恵を絞っても、俺の持っているカードの組み合わせでその強いカードに勝つことは不可能だった。
どう考えても俺の方が強いはずなのに、カードが買えないばっかりに友だちに負ける。元々負けず嫌いな俺はそんな状況がどうしても許せなかった。
どうして俺は貧乏な家に生まれたんだ。父も母も死んでしまえばいい!
そう思った瞬間、左手には激痛が走っていた……。
*
そうだ、俺は両親の過去を一度変えていたんだ。だから、両親の過去を変えようとしても変えられなかったんだ。
父と母を殺したのは俺だった。
今まで信じてきたものがすべて、心の中で大きな音を立てて崩れていく。
全部自分のせいだったんだ。
左手を見つめる。この呪われた能力で、最後に何かひとつでもこの世界のためになるようなことをしようと思った。なんとなく、この能力を使ったらもうこの世には戻れないような気がしていた。
友樹の笑顔が思い浮かぶ。少し救われたような気がした。
大きく息を吸い込む。
渾身の力で俺は左手を握り締めた。
景色が歪んだ。
涙が頬を伝った。