きっとキミは思っただろう。なんだこのタイトルは! と。
そんなわけがないだろう、と。
かの有名なホリエモンだって「やりたいことだけをやれ」と言っているではないか。
「不自由」よりも「自由」の方がいいに決まっている。
そう、私はあなたにそう思ってもらうためにこんなタイトルをつけたのだ。
もう一度言おう。
「自由」に生きてはいけない。
ロジャー・フェデラーを想像してほしい。
(彼はプロ・テニスプレイヤーです。テニス界の生ける神、的なポジションの人です。マイケル・ジョーダンとかマイケル・ジャクソンとかのテニス版です)
彼は誰よりも「自由」にコートを駆け回り、あらゆる球を「自由」自在に繰り出します。
でもよく観察してみてください。
彼は本当に「自由」に動いているのでしょうか。
いえ、決してそうではないはずです。
よくよく考えてみると、ある意味で彼はかなり「不自由」に動いているのではないでしょうか。
彼の洗練されたサービス・フォームを見てみてください。
毎回毎回コピペしてるのではと疑うほどの、まったく同じフォームでサービスを繰り出しています。
これは「不自由」の極地です。
もちろんサービスだけでなく、プロの動きというものはほとんどの場合極めて自由度の低いものであるはずです。
そして、その「不自由」な動きを見て、私たちは美しいなと思うわけです。
では一方で、赤ちゃんの動きを見てみましょう。
楽しそうに動いていますね。
手足をバタバタして、元気におもちゃを叩いたりしています。
これぞ「自由」の極地です。
その結果この人に何ができるでしょうか。
自分で立つこともままならないですね。
なにが言いたいか伝わってきました?
もう一つ例をあげましょう。
たとえばあなたは海外旅行をしています。
そして、列車にでも乗って遠くへ行ってみようか、と決意します。
あなたは列車の中で、手には電波の繋がらないスマホと、本だけがあります。
この状況は極めて「不自由」といえるでしょう。
だって行動範囲は列車の中だけ、スマホは使えない、やることといったら本を読むことくらいですからね。
あなたはいつもスマホばかり見ている人間でしたが、残念ながら今はスマホは使えません。
そんなとき、あなたはもしかしたら、普段はあまり読まない本というものを、せっかくだし読んでみようか、などと思うかもしれません。
こんな「不自由」な環境に身をおいたからこそ彼は、新たな「本を読む」という「自由」を手に入れることができました。
ダメ押しでもう一つ例を。
目が見えない人がいます。
彼はとても「不自由」でしょう。
だって何をやるにしても誰かの助けが必要ですから。
ですが彼は目が見えない分、聴覚や嗅覚、触覚が目が見える人よりも研ぎ澄まされます。
視力が頼りにならない人にとっては、聴覚や嗅覚がその人の「目」になるわけです。
たとえば彼らは、街の匂いだけでそこが渋谷なのか新宿なのか、駅からどのくらい離れているのかを把握できます。
何が言いたいかというと、「不自由」だと我々が思っていることは、実はある意味ではとても「自由」である、ということです。
ほんとうの「自由」は「不自由」の皮をかぶっています。
みんなはそれを「不自由」だと言うでしょうが、もしかしたらその「不自由」こそが、あなたにとってのほんとうの「自由」なのかもしれないですね。
どなたでもご自由に書き込んでください。
Fully Hatter が愛をもってご返事いたします。