7. Fully Hatter さん
[2020/12/18 23:52:54 JST(UTC+09:00)]
> 北篠 さん
おもしろいツイートをご連携いただきありがとうございます。
おそらくこの文章を書かれた方は哲学出身の方とお見受けしますが、個人的には彼 (or 彼女?) の考えには大きな誤りがあると思っています。
(「直接実在論」に強い思い入れがあるようですが、一連の主張にはちょっと無理があるように思われます)
「直接実在論」を簡単に言うと、「見えるものは存在し、見えないものは存在しないはずだ」というような世界観ですね。
大人の我々は地球が丸いことを知っていますが、「直接実在論」の立場にたてば、我々は地球が丸いことを知覚できないので地球は平らなはずだ、というような結論が導かれると思います。
また、「直接実在論」に基づいてりんごの色を答えるならば、それは明らかに「赤」なので赤色であるという結論になりますが、当然、そのりんごを青い光で照らせば「青」になります。
よって、現代においては「直接実在論」の立場は極めて不利な立場であると言わざるを得ませんが、そこをなんとか覆そうと論理を組み立てたものがこの一連のツイートかと思います。
(わたしの考えに間違いがある可能性も十分にあるので再反論は大歓迎です)
ここでは、わたしはこの文章に対して 2つの反論を試みてみようと思います。
まず最初に、この「直接実在論」の主張をより広義に捉え、過去の偉大な哲学者たちが辿ってきた軌跡も含めてすべてを全部丸ごとぶった斬ってみようと思います。(その根拠は現代の「脳科学」の知見になります)
次に、「直接実在論」の主張の矛盾を個別具体的に指摘してみようと思います。
そして最後に、一連のツイートに補足する形で「脳科学」「コンピュータ・サイエンス」の知見による "肉付け" を試みてみようと思います。
■ 1. 過去の偉大な哲学者の「自己」論の誤りについて
この一連のツイートや過去の偉大な哲学者が「自己」の議論をする上で当たり前のように前提としている「意識」について、その暗黙の仮定には明らかな誤りがあります。
哲学者を含む我々の多くは、たとえばカレーを食べるとき、「カレーを食べる」とまず最初に意識し、その意識によって脳から手に信号が送られ、最終的に実際に手が動く、というように考えていると思いますが、これは明らかな誤りです。
根拠は 1983年のリベット博士の論文です。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%99%E3%83%83%E3%83%88)
この論文によって、たとえば人が指を曲げようと「意識」したとき、その「意識」の約0.3秒前にはすでに指を曲げるための司令が脳から出ていることが分かっています。
つまり、我々が「カレーを食べよう」と意識したその瞬間は、脳が手に「カレーを食べろ!」という司令を出した "あと" だということです。
この事実を納得のいく形に体系づける一つの仮説が「受動意識仮説」です。(この仮説は、個人的には「種の起源」にも匹敵するほどの世紀の大発見だと思っています)
この仮説に基づくと、我々の主体 (意思決定をしている本体) は「無意識」にこそあり、つまり我々はあらゆる意思決定を「無意識」で行っており、「無意識」に行われた行為を観測したあとに、後付けでその理由を作り上げる行為が「意識」である、ということになります。
たとえば我々は「走る」ことができますが、それを「無意識」的に行うこともできますし、「意識」的に背筋を伸ばして視線を遠くに向けて地面を踏み切って手を振って「走る」こともできます。
が、これを「受動意識仮説」で説明するならば、「意識的に地面を踏み切る」という行為は正確には、「無意識」の領域で地面を踏み切るという判断をし、脳から足へ地面を踏み切るように司令を出し、"その後" に「意識」がそのことを知覚して、あたかも意識的に地面を蹴ったかのような認識を作り上げ、結果として地面を踏み切っている、ということになります。
この前提にたつと、過去の「偉大な」哲学者たちが論じてきたことのほぼすべてがまったく意味のない問いであることが分かります。
たとえば以下の文章について。
『私たちの自己とは何か。私たちの自己は、すべてが交通可能な宇宙の一部の場所に、その交通の内容と仕方に制限を加え、内部と外部を分ける境界線を引くことによって成立している。この境界の内部が己と呼ばれる。私たちの存在の本質は、この境界にあるといってよいだろう』
簡単にいうと『「内側」と「外側」の境界線があったときにその「内側」が自分だよね』という、普通の感覚ではごく当たり前の「常識」のように思えますが、これは「感覚」や「認識」によって捉えられる何かが「自己」であることを言ってしまっており、「感覚」や「認識」や「意識」に主体性がない (意思決定の根源ではない) という事実に基づくとトンチンカンな言及であることが分かると思います。
「自己」とは認識できない「無意識」の領域に存在するはずであり、決して「感覚」や「認識」や「意識」にはその本質はないからです。
■ 2. 「直接実在論」への具体的な反論
『世界は脳(心)のなかに表象されると信じているひとたちは、自分自身をその表象の内部に位置づけていない。認識する主観は、世界の外にいる』
これは論理が飛躍しているように思います。
たとえば、人は(自分自身を含む)世界の一部を切り取ってその一部を脳(心)の中に再現しているとするならば、「自分自身をその表象の内部に位置づける」ことも可能ですし、「認識する主観は世界の外にいる」とは限りません。
『すなわち、知覚をカメラでスナップショットをとるような行為として捉えていて(つまり網膜像理論を採用していて)、ちょうどカメラ自身はそのなかに写っていないように、主観も知覚世界のなかにいない、といった知覚論を信じこんでいないだろうか』
これはカメラの例えに引きづられてしまっていますが、たとえば「主観」をコンピュータ・サイエンスにおける「関数」のようにとらえるならば、その「関数」自身を「関数」にかけることが可能です。カメラの例で言うならば、自分自身のスナップショットをとることも十分に可能です。
『知覚者は身体的存在であり、それは世界の一部として、自分自身によってつねに知覚されている。そうした、知覚世界の一隅を占めるにすぎない自分の身体のなかに、世界全体が収まっているというのは明らかに矛盾している』
上記に書いたように、「人は(自分自身を含む)世界の一部を切り取ってその一部を脳(心)の中に再現している」とすれば、世界全体(の一部)を自分の限定的な身体のなかに収めることは十分に可能です。
『しかし、脳内に到達しているのは、刺激作用、いわば興奮であり、その興奮の移動にはどこかに終点があるわけではないだろう。あるいは、環境についての情報が身体のなかを移動してしまえば、その情報が外界のどの部分についての情報であるのかを知らせるもうひとつ別の情報が必要となろう』
抽象的に考えすぎて訳が分からなくなってしまっているようですが、たとえば目の前にりんごがあったときにそれを目で認識する仕組みはシンプルです。
「左目の網膜によって得た画像情報」と「右目の網膜によって得た画像情報」の 2つのそれぞれの情報の中に、それが左目、もしくは右目から得られた情報であることを記載するだけで OK です。
(もう少し詳しく言うと、AI (機械学習) の発明によって、上記の例でいう「左目」というラベリングがなかったとしてもシステム構築が可能であることが分かっています。より具体的にいうと、左目からくる情報に X というラベルが貼られ、右目からくる情報に Y というラベルが貼られており、X と Y が区別さえできれば、X が右目なのか左目なのか、もしくは味覚なのか聴覚なのかすら、事前に厳密に定義をする必要はありません。その X の情報と、それによってもたらされる結果の組み合わせの経験値から、我々は X が視覚であることを後天的に学んでいます)
『対象から発せられ、動物の脳に到達するものは、エネルギーの流れであり、刺激作用である。エネルギーや刺激作用は、それ自体は情報ではない』
エネルギーや刺激作用はそれ自体が情報です。
■ 3. 一連のツイートの補足
『私たちの自己は、すべてが交通可能な宇宙の一部の場所に、その交通の内容と仕方に制限を加え、内部と外部を分ける境界線を引くことによって成立している。この境界の内部が己と呼ばれる』
「内部」と「外部」を分ける境界線の表現について、これをより正確に記述するならば、その境界は「皮膚」のような物質的なものではありません。
この一連のツイートでは、たとえばテニスラケットを持つテニスプレイヤーにとってはテニスラケットも体の一部である、というような意図が読み取れますが、それだけでは不十分で、たとえば「テニスラケット」とそのまわりの空気の境目が境界 "ではない" ということに注意が必要です。
脳科学について知見のない方にとっては、わたしが何を言おうとしているのかチンプンカンプンかと思いますが、これは 1998年に学術雑誌ネイチャーに掲載されたピッツバーグ大学の精神医学者による実験がその根拠となります。("Rubber hands ‘feel’ touch that eyes see": https://www.nature.com/articles/35784)
この実験で、被験者は自分の手が遮断物で遮られ、自分の手が自分の目では見えない状態に置かれます。そして、見える部分に「義手」が置かれます。このような状況で、被験者の本当の手と義手に対して同時に同じ場所を同じやり方でさすります。
こうするとどうなるでしょうか?
当然最初は、自分の手は実際にさすられるので自分の見えない手がさすられている感覚があります。そして当然、義手に神経は届いていないので、義手がいくらさすられようとも自分にはその感覚は伝わりません。
ですが 1分もすると、被験者は次第に義手が自分の手のように錯覚してしまうことが分かっています。
実際に体感するさすられる感覚と、目で知覚する義手がさすられる現象があまりに類似しているため、義手が自分の手のように錯覚してしまうのです。
これは何を意味するかというと、自分の手が自分のもののように感じるのは、脳がそのように処理をしているからで、「実際に自分の実在の手が自分のものであるわけではない」ということです。
以上より、最初の話については、「内部」と「外部」を分ける境界線は脳が作り出した幻想にすぎない、ということが結論づけられます。
(ここで、境界線を作り出す主体を「脳」と表現しましたが、正確にはその主体は脳だけではありません。たとえば「腸」は腸神経系という脳とは独立の神経系を持ち、この働きによって脳の司令なしに独自で判断をし、また他臓器に働きかけることすらあることが分かっています。また、腕や足それ自体にも「記憶」の機能が備わっており、四肢の喪失により記憶も同時に失われたり、腕の移植により移植元の人間の記憶が引き継がれる現象が観測されています。「脳」によるものとされている諸機能も、実は脳以外の器官によるものだったりするのです)
『私たちの自己と自己ならざるものを分ける境界は、究極のところ、運動というよりも移動によって顕わになるのである。移動しても、自分に付き添う物が自己の内部である』
ちょっと具体的な名称は忘れてしまいましたが、たとえば自分の足が自分のもののように思えなくなる症状が実在します。
その人には実際に足に一切の異常が見られないのにも関わらず、その足の感覚が失われ、まるで別人の足が自分の体についているような感覚を持つそうです。
これは上記に対しての明確な反例であり、自己とは「自分に付き添う物」ではなく「脳が自己とみとめた物」であることが示唆されます。
『アリストテレスによれば、魂は、栄養摂取する能力、感覚する能力、思考する能カ、動(運動変化)によって規定される。魂をもつものともたないものとの相違を顕著に示すものは、自発的な動(運動変化)と感覚である。自ら運動するもの、つまり動物だけが感受性をもつ』
魂の有無は「運動変化と感覚の有無」などではなく、「エピソード記憶の必要性の有無」によって示される、の方がはるかに合理的な説明だと思います。
なぜならば、「エピソード記憶」が不要ならば「意識」も不要だからです。
心理学的には、記憶には「宣言的記憶」と「非宣言的記憶」の 2種類が存在します。
「宣言的記憶」とは、文章のような記号やイメージで表せる記憶を指し、そのように表せない記憶を「非宣言的記憶」と呼びます。
たとえば「犬」という単語は「宣言的記憶」ですが、テニスのサーブの打ち方などは「非宣言的記憶」です。
何年たっても「犬」という単語を忘れないのは「宣言的記憶」によって記憶しているためで、テニスのサーブの打ち方を忘れないのも、それを「非宣言的記憶」で記憶しているからです。
そして、「宣言的記憶」はさらに「エピソード記憶」と「意味記憶」に分けられます。
「エピソード記憶」とは、たとえば自分が朝起きてから夜寝るまで何をしたか、のような、エピソードの連続として順番に覚えていく記憶のことを指し、「意味記憶」とは、たとえば辞書のように、時系列には関係のないモノやコトの記憶のことを指します。
もし「エピソード記憶」ができないと、たとえば我々は倉に保管してある食料の存在を記憶することができません。
下等な哺乳類はまさにそのような状態で、お腹が空くと食事をし、余った食べ物のことはその場で忘れてしまいます。まさに認知症のような状態ですね。
昆虫などのもっと単純な生き物については「意味記憶」すら持たないため、常に状況に対する反射で生きているといえます。
そして、この「エピソード記憶」をするために必要なものが「意識」です。
逆に言うと、「エピソード記憶」が不要ならば「意識」も不要です。
なぜならば、たとえば自分が行ったことを片っ端から忘れてしまう「エピソード記憶」を持たない動物にとって、その行為をまったく「意識」しなくても何も問題は起こらないからです。
たとえそれを「意識」していたとしても、次の瞬間にはその「意識」していたことすら忘れてしまうので、その「意識」はまったくの無意味です。
< 参考文献 >
・前野隆司 (2010) 『脳はなぜ「心」を作ったのか 〜「私」の謎を解く受動意識仮説〜』 ちくま文庫
・トーマス・メッツィンガー (2015) 『エゴ・トンネル 〜心の科学と「わたし」という謎〜』 岩波書店
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