精神病は実在するか?

〜製薬業界の 4つの矛盾から見えてくる「うつ病」や「統合失調症」の真の姿について〜
コメント 18

今回のお話は「住人への手紙」の 2通目の内容を転記したものです

(「住人への手紙」の) 1通目の反応で、なぜか「精神病についての話を聞きたい」という方が多数いらっしゃいましたので、リクエストにお答えしてみようと思います。

ただ、最初に断っておきますが、おそらく今回の内容は、皆様が想像しているような内容ではないと思います笑

まず大前提として、人類は「精神病」についてほとんど何も分かっていません。

もちろん、経験的に分かっていることはいくつかあり、それによって救われている人が多数いることも事実です。

ですが、それ以上に未知の部分が多すぎて、むしろその経験則を誤って拡大解釈してしまったが故に、それによって不幸になっている人も大勢います。

今回は、そんな現代の「精神病」の発明によって不利益を被っている側についてのわたしの見解を、様々な角度から列挙してみたいと思います。

(繰り返しになりますが、「精神病」の知見により救われている人が多くいることもまた事実です。今回のお話は「不利益を被っている側」に絞ったお話であり、その恩恵を受けてる側のお話はあえて俎上に載せていないことをご了承ください)

今回のお話の出発点は、昔から抱いていたわたしの個人的な疑問になります。

『本当に精神病なんてものは存在するのだろうか? 製薬会社や医者など、医療業界が自らの利益のためにでっち上げた嘘ではないか?』

ほんの数年前まで、わたしは「精神病 = 嘘」はほとんど間違いがないと思っていましたが、ふとしたきっかけで、その自分の確信にわずかなほころびが生まれました。

「自己愛性パーソナリティ障害」について調べていく過程で、その症状の描写や性質、想定される原因やその因果関係が「極めて正確」であることに気がついたのです。

ある一面を見れば「精神病 = 嘘」はほぼ確実なのですが、どうやらそれだけでは簡単に説明がつかない「真理」に近い何かがそこにあることに気づき、個人的にいろいろと気になって調べてみた経緯をまとめたものが今回のお話です。

そもそも精神病とは何か?

精神病には大きく 2種類あります。

1つは、脳の外傷など、身体的な「怪我」が原因となって引き起こされる精神病である「器質性精神疾患」です。アルツハイマー病やパーキンソン病などがこちらの「器質性精神疾患」に分類されます。

もう1つは、脳や体などにまったく外的な異常が見られないのにも関わらず、なぜか通常のパターンとは大きく外れた行動をしてしまう「機能性精神疾患」です。統合失調症がその代表例ですね。

今回のお話では上記の後者、見た目は普通の人とまったく変わらない「機能性精神疾患」のことを「精神病」と呼ぶこととします。

(現代ではまだ外的な要因を発見できずに「機能性精神疾患」に分類されているが、実は隠れた外的要因が存在し、本当は「器質性精神疾患」である、という可能性もありますが、今回はお話を分かりやすくするためにこの論点についての言及は割愛します)

精神病が嘘である根拠①: 「精神病」はそもそも定義できない

知らない人も多いかもしれませんが、実は「精神病」は定義できません。

「統合失調症」や「うつ病」や「性同一性障害」や「発達障害」など、この世には数多くの精神病の名前が存在し、あたかも「統合失調症」の人が存在するかのような印象を与えますが、これらは明らかな誤りです。

考えてみれば当たり前なのですが、そもそも「統合失調症」とは何なのか我々は現状ではまったく分からないのに、それを定義できるはずがありません。

「統合失調症の人」と言う場合、正確には「統合失調症と判定される症状を持っている人」を意味します。

(...同じじゃない?) と思う人もいるかもしれませんが、これらはまったく違います。

たとえば腕に激痛があったとして、この症状は「骨折」と同じなのでとりあえず「骨折」と診断する、なんてことは間違いだと皆さん分かるかと思います。

その激痛が骨折なのか肉離れなのか、もしくはハチに刺されたのか切り傷なのか、その原因によって対応方法はまったく異なるからです。

ですが、精神病ではその原因がまったくの不明なので、上記のような『激痛なのでとりあえず「骨折」と診断する』ような方法を採らざるを得ません。

「統合失調症」の診断は、「統合失調症」の症状リストを何の根拠もなくとりあえず作成し、そのリストに則って患者の症状の有無を判定している、ということなのです。

(ちなみに、1980年頃までは同じ患者でも医者によって診断される病名がまったく違うことも多々あり、そもそも正確に診断できない、という根本的な問題もありました)

このように、そもそも定義できないものを「実在する」と断言できるでしょうか?

精神病が嘘である根拠②: 「精神病」は「正常」である

たとえばうつ病の中でも重い病気である「大うつ病」の診断基準 (「大うつ病性エピソード」と診断される基準) は以下です。

『9つの症状項目のうち 5つ以上が存在し、それが 2週間以上持続していること』

これは、症状項目のうち 4つ該当する患者は「大うつ病」ではなく、それより 1つだけ症状が多い患者は「大うつ病」と診断されるということです。

症状が 13日しか経過していない患者は「大うつ病」ではなく、それより症状が 1日長い患者は「大うつ病」だということです。

何か違和感がありませんか?

この部分について、統計的な観点からちょっと深く見ていきます。

たとえば自然界の多くの統計をとってみると、その多くは正規分布と呼ばれる、中央が盛り上がって平均値から離れた左右にいくほど小さくなるような分布となります。

しかし、「病気」の個体を含めるとその分布には特徴がでてきます。

たとえば知能指数の分布は以下です。(右にいくほど高知能で、IQ 70 を下回ると知的障害と定義されます)

知能指数の分布
(北村俊則 (2017) 『精神に疾患は存在するか』 星和書店) より

上記の分布は全体的には正規分布のように見えるのですが、よく見ると左側 (IQ 25~50 あたり) に小さな山ができていることが分かると思います。

この山は何を意味しているか分かりますか?

この山が高知能な側 (IQ 150~175 あたり) にはないことからその理由を推測できた方もいらっしゃるかもしれませんが、実はダウン症や染色体異常、先天的代謝異常や遺伝疾患を持つ方がこの山を形作っています。

この分布から分かるのは、知的障害と診断される方の中には、上記の「山」(「明らかな脳の疾患」の結果として知能の低い方) と、それ以外の自然界の自然な分布による「正常」な人も多数含まれている、ということです。

そしてさらに、うつ病などの気分障害や不安障害については指数関数分布を示しますが、こちらに至っては知能指数の分布に見られる「山」がそもそも存在しません。

つまり、気分障害や不安障害に限ってはもはや「病気」ですらなく、自然な分布による「正常」の可能性があるのです。

統計的に少数だから、という理由だけで「精神病」というレッテルを貼ることは、果たして正しいことなのでしょうか?

精神病が嘘である根拠③: 治療方法の明らかな誤り

ここまでに述べたように、そもそも我々は「精神病」を定義できず、さらに「精神病」に分類される人は至って「正常」な可能性があるので、「精神病が実在する」には疑念があることはほとんど示せたと思いますが、ダメ押しで他の観点からも「精神病」の発明の欠陥を挙げてみます。

たとえばあなたの事業の業績が最近落ちてきており、日々そのことが頭から離れず、それが原因で精神に異常をきたしたとしましょう。

そんなあなたが医者のもとを訪れたとして、どのような治療を受けられるでしょうか?

おそらく、その人に本当に提供すべきは「業績が落ちている原因の特定方法」「業績を伸ばすためのメンターの紹介」「事業に投資してくれる投資家の紹介」「クラウドファンディングのやり方」「他業種への転換の勧め」であるはずですが、もちろん、医者にそのようなことはできません。

大抵の場合、何の解決にもならない謎の薬を処方され、最悪の場合はその副作用に苦しむ羽目になります。

たとえば会社の上司がパワハラ体質で、日常の業務で怒鳴られ続けて精神に異常をきたしてしまったとしましょう。

この場合も同様に、その人に提供すべきは「法的な知識」「訴訟を起こす方法」「転職の方法」「優良企業の紹介」「フリーランスや独立のメリット・デメリット」であるはずですが、医者の出す答えは常に「薬」です。

上記のような例に限らず、医者が出す「精神病」への答えはほぼ「薬」であって、日本では多くの人が何の疑問もなくこの実情を受け入れていますが、ここには深い問題が潜んでいると思っています。(この部分についての詳細は後ほど言及します)

精神病が嘘である根拠④: 「精神病」によって儲けている存在

精神医学界では一般的に、「統合失調症」は神経伝達物質のドーパミンの過剰、「うつ病」はセロトニンの不足、「不安障害」は神経伝達物質の異常とされています。

精神病の原因はこのような神経科学的現象によるものとされ、これらは投薬によって治療を推し進めることができる、と多くの人が信じ込んでいます。

ですが実は、これらの因果関係を示す証拠はまだ何も見つかっていません。

たとえば、「向精神薬」の神経伝達物質への作用に関する理論は、「向精神薬」が発見された当時に知られていたごく少数の神経伝達物質の性質に基づくものです。

現在では「向精神薬」は 100 を超える神経伝達物質に作用することが分かっており、その理論の妥当性には大きな疑問が残っています

他にも、神経伝達物質セロトニンは当初は 1つの受容体にのみ作用すると考えられていましたが、現在は少なくとも 15 のセロトニン受容体が存在し、これらの受容体の働きや精神状態との関連は現在まったく分かっていません。

現時点では、特定の神経伝達物質や受容体と精神状態との間に単純な 1対1 の関係があるとは到底考えられず、それらをシンプルに表現する説明はすべて嘘、と言ってもよいと思われます。

そして、そのような「嘘」の理論に基づいて処方される薬は、なぜ効くかはもちろん、実際に効くかどうかもよく分からないものに過ぎないのです。

では、なぜ我々はこのように信じ込まされているのでしょうか?

その理由を考えるにあたって、「精神病」によって得をしているのは誰かを考えてみるとよいかもしれません。

たとえば製薬業界は、「精神病」の発明によって莫大な利益を手にしています。(全世界の抗うつ剤の売上は約6000億円で、向精神薬に至ってはアメリカの売上だけでも年間8000億円以上になります)

また、製薬会社は医者や大衆の意見や行動に影響力を及ぼすために巨額な資金を投じています。(医者がどの薬を処方するかは、製薬会社からの売り込みの影響が極めて大きいことを示す研究結果があります。また、家庭医の 58% が、最も最近処方した薬の情報源が製薬会社の営業マンである、という研究もあります)

最後に

ここまで「精神病」が嘘である可能性について様々な角度から言及してきましたが、もちろん、だからといって「精神病」という概念をなくすべきだとはわたしも思っていません。

今後も、「精神病」についての知見を広めるべく、人類は試行錯誤し続けなければならないと思います。

ですが、何も分かっていないことを分かったふりをして、恣意的なラベリングを行うことで暴利を貪り、それによって不利益を被っている側への思慮を欠くことは決して許されないことだと思います。

「精神病」の知見が真に救うべき人のために活用され、それによって不利益を被る人がいない未来を願ってやみません。

参考文献

  • 北村俊則 (2017) 『精神に疾患は存在するか』 星和書店
  • Elliot S. Valenstein (2018) 『精神疾患は脳の病気か?』 みすず書房

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キング牧師
最大の悲劇は、悪人の圧制や残酷さではなく、善人の沈黙である。


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Comments

1. Taishi Jogu さん
[2020/11/12 21:48:00 JST(UTC+09:00)]

(note のコメントより引用)
精神病が嘘である根拠①のウソ: 原因が不明(明確に説明できない)とされる病気は他の分野にもいくらでもあります(例→潰瘍性大腸炎、リウマチ、乾癬、群発頭痛、多発性硬化症)。精神病だけが特別ではありません。

精神病が嘘である根拠②のウソ:精神疾患は原則として、生活に著しい支障を来たしていて、かつその原因が精神疾患以外に考えられない人のみが患者として認定されます。「正常」な人を精神科医がわざわざ患者に認定しに行くことはありません。困っていないなら病院に来なければいいのです。

精神病が嘘である根拠③のウソ:上で述べたように、「精神疾患以外に原因が推測できない」もののみが精神病として診断されるのです。もしあなたが違うと信じているなら病院に来ないで自力で解決すればいい。そして『投薬』という解決法がなかった時代には、歯止めのない監禁、拷問、電気ショック、ロボトミー、迫害、処罰が患者に適用されていたのです。

精神病が嘘である根拠④のウソ:なぜ、製薬会社の研究開発の成果にすなおに感謝できないのですか。

2. Fully Hatter さん
[2020/11/13 00:47:00 JST(UTC+09:00)]

(note のコメントより引用)
おそらくは、Taishi Jogu さんは「精神病」の発明によって救われた方か、もしくは製薬会社の方だと思いますが、本文でも書いているように Taishi Jogu さんのような「精神病」によって得をしている側についてはあえて言及していません。基本的にはご指摘の内容には同意ですが、以下にいくつかコメントします。

「精神病が嘘である根拠②のウソ」について、たとえば親などに精神病だと疑われ、自分はまったく困っていないのにも関わらず無理やり病院に行かされ、お医者さんの質問に正直にこたえていたら精神病と診断された、というようなケースはどうでしょうか? これはそんなに珍しいケースではないはずです。「精神病」とラベリングをされるだけで数多くのデメリットがあることはご存知の通りかと思います。

「精神病が嘘である根拠③のウソ」について、電気ショックは (見た目にも分かりやすいので) 悪い治療法の代表例として挙げられがちですが、実は最新の研究ではその有効性が明らかになっています。もちろん場合にもよりますが、少なくとも投薬よりは遥かに確実な治療法とされるケースが多いです。ご指摘の趣旨とは少し異なりますが、一応補足させていただきました。そして、ご自身が投薬で救われた側だから、このように投薬に絶対的な信頼を置かれているのだと想像しますが、自分が投薬で救われたからといって、投薬によって地獄を見ている人たちの存在を見て見ぬ振りをすることは正しいことだとは思えません。

「精神病が嘘である根拠④のウソ」の質問について、(質問ではないのかもしれませんが) わたしが「精神病」の発明で損をする立場だからです。製薬会社の研究開発の "成果" の恩恵にも預かっていません。

3. にゃるたま さん
[2020/12/09 22:55:00 JST(UTC+09:00)]

(Twitter のコメントより)
ザッとみましたがいまいちよくわかりませんでした

一番知りたいのは
脳は精密機械とも称されます

ならば、精神病という状態はある種の沈静化状態だと思います。

統合失調症について話があがっていたのでそれについては更に調査してほしいです。
統合失調症は実際にはないことを体験します。

ということはポジティブな解釈をするならば、仮想世界の擬似体験です。

しかし。脳が精密機械なら
なぜそのような体験をするか。

それと現実とあまりにも一致するような解釈を統合失調症の患者はします。誇大妄想も抱きます。
それはどういったデザインなのでしょうか?

4. Fully Hatter さん
[2020/12/10 08:02:00 JST(UTC+09:00)]

(Twitter のコメントより)
「精神病というものはおばけと同じで、誰もそんなものは見たことないですよ」というのが今回の主張でした。

ですので、脳が精密機械であろうとなかろうと、わたしの主張自体にはあまり関係はありません。

その上でご回答すると、統合失調症でない人の体験ももちろん、仮想世界の疑似体験です。

すべての人間に「実際の体験」は不可能です。
りんごがあったときに、それを見て「赤い」と思うのは、りんごが赤いからではなく、あなたの仮想世界上のりんごが赤いからです。

超音波でものを「視る」コウモリにとっては、りんごはまったく違う「色」をしているはずです。

実際の世界に似た仮想世界を頭の中に作り出せるのが正常な人で、その機能に異常のある人が「統合失調症」だとすると、我々は脳がどのようにして仮想世界を作り出しているのかまったく分からないので、「統合失調症」とは何なのかがまったく分からないのも当然の帰結です。

5. にゃるたま さん
[2020/12/10 08:34:00 JST(UTC+09:00)]

(Twitter のコメントより)
おばけ。わかりやすいですね。

6. 北篠 さん
[2020/12/17 20:05:01 JST(UTC+09:00)]

4.の「意識の仮想世界」を崩します。

といっても自分は説明が苦手なので、自分が意識の仮想世界仮説を脱却するきっかけになったツイートを貼らせて貰います。

https://twitter.com/aweshin_bot/status/1319322876076576768?s=21

このツイートと下に続くリプライがあなたの世界の見方を変えてくれますように。

7. Fully Hatter さん
[2020/12/18 23:52:54 JST(UTC+09:00)]

> 北篠 さん
おもしろいツイートをご連携いただきありがとうございます。
おそらくこの文章を書かれた方は哲学出身の方とお見受けしますが、個人的には彼 (or 彼女?) の考えには大きな誤りがあると思っています。
(「直接実在論」に強い思い入れがあるようですが、一連の主張にはちょっと無理があるように思われます)

「直接実在論」を簡単に言うと、「見えるものは存在し、見えないものは存在しないはずだ」というような世界観ですね。
大人の我々は地球が丸いことを知っていますが、「直接実在論」の立場にたてば、我々は地球が丸いことを知覚できないので地球は平らなはずだ、というような結論が導かれると思います。
また、「直接実在論」に基づいてりんごの色を答えるならば、それは明らかに「赤」なので赤色であるという結論になりますが、当然、そのりんごを青い光で照らせば「青」になります。
よって、現代においては「直接実在論」の立場は極めて不利な立場であると言わざるを得ませんが、そこをなんとか覆そうと論理を組み立てたものがこの一連のツイートかと思います。
(わたしの考えに間違いがある可能性も十分にあるので再反論は大歓迎です)

ここでは、わたしはこの文章に対して 2つの反論を試みてみようと思います。
まず最初に、この「直接実在論」の主張をより広義に捉え、過去の偉大な哲学者たちが辿ってきた軌跡も含めてすべてを全部丸ごとぶった斬ってみようと思います。(その根拠は現代の「脳科学」の知見になります)
次に、「直接実在論」の主張の矛盾を個別具体的に指摘してみようと思います。
そして最後に、一連のツイートに補足する形で「脳科学」「コンピュータ・サイエンス」の知見による "肉付け" を試みてみようと思います。


■ 1. 過去の偉大な哲学者の「自己」論の誤りについて
この一連のツイートや過去の偉大な哲学者が「自己」の議論をする上で当たり前のように前提としている「意識」について、その暗黙の仮定には明らかな誤りがあります。

哲学者を含む我々の多くは、たとえばカレーを食べるとき、「カレーを食べる」とまず最初に意識し、その意識によって脳から手に信号が送られ、最終的に実際に手が動く、というように考えていると思いますが、これは明らかな誤りです。

根拠は 1983年のリベット博士の論文です。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%99%E3%83%83%E3%83%88)

この論文によって、たとえば人が指を曲げようと「意識」したとき、その「意識」の約0.3秒前にはすでに指を曲げるための司令が脳から出ていることが分かっています。
つまり、我々が「カレーを食べよう」と意識したその瞬間は、脳が手に「カレーを食べろ!」という司令を出した "あと" だということです。

この事実を納得のいく形に体系づける一つの仮説が「受動意識仮説」です。(この仮説は、個人的には「種の起源」にも匹敵するほどの世紀の大発見だと思っています)

この仮説に基づくと、我々の主体 (意思決定をしている本体) は「無意識」にこそあり、つまり我々はあらゆる意思決定を「無意識」で行っており、「無意識」に行われた行為を観測したあとに、後付けでその理由を作り上げる行為が「意識」である、ということになります。
たとえば我々は「走る」ことができますが、それを「無意識」的に行うこともできますし、「意識」的に背筋を伸ばして視線を遠くに向けて地面を踏み切って手を振って「走る」こともできます。
が、これを「受動意識仮説」で説明するならば、「意識的に地面を踏み切る」という行為は正確には、「無意識」の領域で地面を踏み切るという判断をし、脳から足へ地面を踏み切るように司令を出し、"その後" に「意識」がそのことを知覚して、あたかも意識的に地面を蹴ったかのような認識を作り上げ、結果として地面を踏み切っている、ということになります。

この前提にたつと、過去の「偉大な」哲学者たちが論じてきたことのほぼすべてがまったく意味のない問いであることが分かります。
たとえば以下の文章について。

『私たちの自己とは何か。私たちの自己は、すべてが交通可能な宇宙の一部の場所に、その交通の内容と仕方に制限を加え、内部と外部を分ける境界線を引くことによって成立している。この境界の内部が己と呼ばれる。私たちの存在の本質は、この境界にあるといってよいだろう』

簡単にいうと『「内側」と「外側」の境界線があったときにその「内側」が自分だよね』という、普通の感覚ではごく当たり前の「常識」のように思えますが、これは「感覚」や「認識」によって捉えられる何かが「自己」であることを言ってしまっており、「感覚」や「認識」や「意識」に主体性がない (意思決定の根源ではない) という事実に基づくとトンチンカンな言及であることが分かると思います。
「自己」とは認識できない「無意識」の領域に存在するはずであり、決して「感覚」や「認識」や「意識」にはその本質はないからです。


■ 2. 「直接実在論」への具体的な反論
『世界は脳(心)のなかに表象されると信じているひとたちは、自分自身をその表象の内部に位置づけていない。認識する主観は、世界の外にいる』
これは論理が飛躍しているように思います。
たとえば、人は(自分自身を含む)世界の一部を切り取ってその一部を脳(心)の中に再現しているとするならば、「自分自身をその表象の内部に位置づける」ことも可能ですし、「認識する主観は世界の外にいる」とは限りません。

『すなわち、知覚をカメラでスナップショットをとるような行為として捉えていて(つまり網膜像理論を採用していて)、ちょうどカメラ自身はそのなかに写っていないように、主観も知覚世界のなかにいない、といった知覚論を信じこんでいないだろうか』
これはカメラの例えに引きづられてしまっていますが、たとえば「主観」をコンピュータ・サイエンスにおける「関数」のようにとらえるならば、その「関数」自身を「関数」にかけることが可能です。カメラの例で言うならば、自分自身のスナップショットをとることも十分に可能です。

『知覚者は身体的存在であり、それは世界の一部として、自分自身によってつねに知覚されている。そうした、知覚世界の一隅を占めるにすぎない自分の身体のなかに、世界全体が収まっているというのは明らかに矛盾している』
上記に書いたように、「人は(自分自身を含む)世界の一部を切り取ってその一部を脳(心)の中に再現している」とすれば、世界全体(の一部)を自分の限定的な身体のなかに収めることは十分に可能です。

『しかし、脳内に到達しているのは、刺激作用、いわば興奮であり、その興奮の移動にはどこかに終点があるわけではないだろう。あるいは、環境についての情報が身体のなかを移動してしまえば、その情報が外界のどの部分についての情報であるのかを知らせるもうひとつ別の情報が必要となろう』
抽象的に考えすぎて訳が分からなくなってしまっているようですが、たとえば目の前にりんごがあったときにそれを目で認識する仕組みはシンプルです。
「左目の網膜によって得た画像情報」と「右目の網膜によって得た画像情報」の 2つのそれぞれの情報の中に、それが左目、もしくは右目から得られた情報であることを記載するだけで OK です。
(もう少し詳しく言うと、AI (機械学習) の発明によって、上記の例でいう「左目」というラベリングがなかったとしてもシステム構築が可能であることが分かっています。より具体的にいうと、左目からくる情報に X というラベルが貼られ、右目からくる情報に Y というラベルが貼られており、X と Y が区別さえできれば、X が右目なのか左目なのか、もしくは味覚なのか聴覚なのかすら、事前に厳密に定義をする必要はありません。その X の情報と、それによってもたらされる結果の組み合わせの経験値から、我々は X が視覚であることを後天的に学んでいます)

『対象から発せられ、動物の脳に到達するものは、エネルギーの流れであり、刺激作用である。エネルギーや刺激作用は、それ自体は情報ではない』
エネルギーや刺激作用はそれ自体が情報です。


■ 3. 一連のツイートの補足
『私たちの自己は、すべてが交通可能な宇宙の一部の場所に、その交通の内容と仕方に制限を加え、内部と外部を分ける境界線を引くことによって成立している。この境界の内部が己と呼ばれる』

「内部」と「外部」を分ける境界線の表現について、これをより正確に記述するならば、その境界は「皮膚」のような物質的なものではありません。
この一連のツイートでは、たとえばテニスラケットを持つテニスプレイヤーにとってはテニスラケットも体の一部である、というような意図が読み取れますが、それだけでは不十分で、たとえば「テニスラケット」とそのまわりの空気の境目が境界 "ではない" ということに注意が必要です。

脳科学について知見のない方にとっては、わたしが何を言おうとしているのかチンプンカンプンかと思いますが、これは 1998年に学術雑誌ネイチャーに掲載されたピッツバーグ大学の精神医学者による実験がその根拠となります。("Rubber hands ‘feel’ touch that eyes see": https://www.nature.com/articles/35784)

この実験で、被験者は自分の手が遮断物で遮られ、自分の手が自分の目では見えない状態に置かれます。そして、見える部分に「義手」が置かれます。このような状況で、被験者の本当の手と義手に対して同時に同じ場所を同じやり方でさすります。
こうするとどうなるでしょうか?
当然最初は、自分の手は実際にさすられるので自分の見えない手がさすられている感覚があります。そして当然、義手に神経は届いていないので、義手がいくらさすられようとも自分にはその感覚は伝わりません。
ですが 1分もすると、被験者は次第に義手が自分の手のように錯覚してしまうことが分かっています。
実際に体感するさすられる感覚と、目で知覚する義手がさすられる現象があまりに類似しているため、義手が自分の手のように錯覚してしまうのです。
これは何を意味するかというと、自分の手が自分のもののように感じるのは、脳がそのように処理をしているからで、「実際に自分の実在の手が自分のものであるわけではない」ということです。
以上より、最初の話については、「内部」と「外部」を分ける境界線は脳が作り出した幻想にすぎない、ということが結論づけられます。
(ここで、境界線を作り出す主体を「脳」と表現しましたが、正確にはその主体は脳だけではありません。たとえば「腸」は腸神経系という脳とは独立の神経系を持ち、この働きによって脳の司令なしに独自で判断をし、また他臓器に働きかけることすらあることが分かっています。また、腕や足それ自体にも「記憶」の機能が備わっており、四肢の喪失により記憶も同時に失われたり、腕の移植により移植元の人間の記憶が引き継がれる現象が観測されています。「脳」によるものとされている諸機能も、実は脳以外の器官によるものだったりするのです)


『私たちの自己と自己ならざるものを分ける境界は、究極のところ、運動というよりも移動によって顕わになるのである。移動しても、自分に付き添う物が自己の内部である』

ちょっと具体的な名称は忘れてしまいましたが、たとえば自分の足が自分のもののように思えなくなる症状が実在します。
その人には実際に足に一切の異常が見られないのにも関わらず、その足の感覚が失われ、まるで別人の足が自分の体についているような感覚を持つそうです。
これは上記に対しての明確な反例であり、自己とは「自分に付き添う物」ではなく「脳が自己とみとめた物」であることが示唆されます。


『アリストテレスによれば、魂は、栄養摂取する能力、感覚する能力、思考する能カ、動(運動変化)によって規定される。魂をもつものともたないものとの相違を顕著に示すものは、自発的な動(運動変化)と感覚である。自ら運動するもの、つまり動物だけが感受性をもつ』

魂の有無は「運動変化と感覚の有無」などではなく、「エピソード記憶の必要性の有無」によって示される、の方がはるかに合理的な説明だと思います。
なぜならば、「エピソード記憶」が不要ならば「意識」も不要だからです。

心理学的には、記憶には「宣言的記憶」と「非宣言的記憶」の 2種類が存在します。
「宣言的記憶」とは、文章のような記号やイメージで表せる記憶を指し、そのように表せない記憶を「非宣言的記憶」と呼びます。
たとえば「犬」という単語は「宣言的記憶」ですが、テニスのサーブの打ち方などは「非宣言的記憶」です。
何年たっても「犬」という単語を忘れないのは「宣言的記憶」によって記憶しているためで、テニスのサーブの打ち方を忘れないのも、それを「非宣言的記憶」で記憶しているからです。

そして、「宣言的記憶」はさらに「エピソード記憶」と「意味記憶」に分けられます。
「エピソード記憶」とは、たとえば自分が朝起きてから夜寝るまで何をしたか、のような、エピソードの連続として順番に覚えていく記憶のことを指し、「意味記憶」とは、たとえば辞書のように、時系列には関係のないモノやコトの記憶のことを指します。

もし「エピソード記憶」ができないと、たとえば我々は倉に保管してある食料の存在を記憶することができません。
下等な哺乳類はまさにそのような状態で、お腹が空くと食事をし、余った食べ物のことはその場で忘れてしまいます。まさに認知症のような状態ですね。
昆虫などのもっと単純な生き物については「意味記憶」すら持たないため、常に状況に対する反射で生きているといえます。

そして、この「エピソード記憶」をするために必要なものが「意識」です。
逆に言うと、「エピソード記憶」が不要ならば「意識」も不要です。
なぜならば、たとえば自分が行ったことを片っ端から忘れてしまう「エピソード記憶」を持たない動物にとって、その行為をまったく「意識」しなくても何も問題は起こらないからです。
たとえそれを「意識」していたとしても、次の瞬間にはその「意識」していたことすら忘れてしまうので、その「意識」はまったくの無意味です。


< 参考文献 >
・前野隆司 (2010) 『脳はなぜ「心」を作ったのか 〜「私」の謎を解く受動意識仮説〜』 ちくま文庫
・トーマス・メッツィンガー (2015) 『エゴ・トンネル 〜心の科学と「わたし」という謎〜』 岩波書店

8. のえまりこ さん
[2020/12/19 02:10:57 JST(UTC+09:00)]

興味深い記事でしたので再び参加させていただきました。

まず、統合失調症のストレッサーとして外的要因が存在する可能性があることは記事内で触れられておりましたので私自身も割愛させていただきます。但し、私自身が考えやすいよう、以下では、「機能性精神疾患」をパーソナリティ障害等を例として考えさせていただこうと思います。(今回語られている「精神病」というのは、その「機能性精神疾患」のことであるというのは把握いたしております。)

精神病の定義は社会の様相によって変わると思っています。社会の大多数が正常、そこから偏った少数派が××障害とラベリングされている、と思っています。
多動性障害を例に挙げますと(こちらは「機能性精神疾患」で合っていますでしょうか…?少し不安になりましたが、分かりやすいのでこの例を使わせていただきますね)、クラスのうち多動な少数の子が目立つから、その子が「多動性障害」とされるのであり、クラスのほとんどが多動で、それが正常とされる世の中であれば、そのうち少数の、じっと席に座っている子は「静寂性障害」などという病名を与えられたかもしれません。(そして、多動になる薬を与えて、正常になるように強いられたりもすると思います。)
そう考えると、社会様相によって変動する精神病には厳密な定義ができません。しかし、これは定義が全くできていないのではなく、「とりあえずの定義」なのだと思いました。(DSMなど。)そして、社会の変質によって、とりあえずの定義が改訂されていっているのだと思います。

私自身は「精神病は嘘である」とまでは言い切ることができませんが、概ね理解はできる、という感覚でした。
但し、パーソナリティ障害の中には反社会性パーソナリティ障害というものもあり、それに関してはやや治療・矯正の必要性を感じます。その方々にとってはそれこそ不快に思われるでしょうが、パーソナリティへの偏りが反社会的なものであれば犯罪への危険因子も高くなるので、法益を守るためにも治療・矯正が必要であるかもしれません。その他にも妄想性障害により、急に暴れて他人に危害を加えかけた人も知っており、やはり、「他人に危害を加えない」という、社会のための抑制というものはどうしてもついて回ると思います。

因みに、私の話ですが、複数人から「お前はパーソナリティ障害だ」とラベリングされたことがあり、それによって、私が極めて明晰なことを述べても「あなたの主張はおかしいよ。だってパーソナリティ障害だから」等と言われ、発言を受け取ってもらえず、大変なショックを受けた経験があります。現在の私自身が「パーソナリティ障害と言われたから何?」と精神医学に否定的であるのか、精神医学を概ね肯定しているのか、については伏せさせていただきますが、ラベリングにより不快な思いをする人がいることも理解できます。
反社会性パーソナリティ障害や妄想性障害のところでは、社会的抑制も時には必要、と述べましたが、それもどこまで抑制すべきかなど難しいですよね。

9. のえまりこ さん
[2020/12/19 02:13:16 JST(UTC+09:00)]

「精神病」というのは社会が「周りの大多数のようにありなさい」と、作り上げられた「正常」を押し付けるものであると思います。しかし、正常に、正常に、と人を導いていけば、徐々に、人のちょっとした個性すらも「××障害」とされ、最終的に人は全員が均質になるのではないかな、とたまに疑問に思ったりもします。それか、大多数が「××障害」といった精神病を抱えているとするならば、それこそが正常となるのであって、次は精神病を抱えていない人が正常ではない、つまり精神病になるという、結局、皆が精神病である、という物凄い事態になりますね(笑)

補足ですが、社会の様相によって定義が変わる学は他にあると思っていて、例えば、法学、経済学、哲学など主に人文科学なのかなと思います。精神医学のあり方というのは、もしかすると、医学でありながら人文科学的要素があるのかもしれませんね。

※他の方のコメントを読む時間がございませんでしたので、重複がございましたら申し訳ございません。今回も楽しかったです。

10. 北篠 さん
[2020/12/19 23:32:32 JST(UTC+09:00)]

>>7

直接知覚……ダメですかね……?
(一応、ギブソンとかセンスデータ説批判とか、残弾はまだあるんですがネ)

なんで直接実在論に肩入れするかって言うと、汎心論(これでググッたら結構な数の論文が出てくるはず)を支持したいから、というのと、幻覚を見たくないからっていうのがあります。(幻覚が存在している時点で人生メリーバッドエンドなのは確定している)

どうにかなりませんかね……?

心がない世界が一番怖いんすよ。

11. 北篠 さん
[2020/12/19 23:50:06 JST(UTC+09:00)]

あとついでに言っときます

あんまり脳を過信しない方が良いですよ。

https://core.ac.uk/download/pdf/199686144.pdf

俺が最も尊敬している哲学者の本です。

別に脳科学者のあなたに喧嘩を売ってるわけじゃありませんが……もう少し視野を広げた方が良いと思いました。

……あ、視神経の方の視野じゃないです。すいません、紛らわしかったですかね?

12. Fully Hatter さん
[2020/12/21 19:28:29 JST(UTC+09:00)]

> のえまりこ さん
コメントありがとうございます!
基本的にはのえまりこさんの考えには同意ですが、以下コメントさせていただきます。


『精神病の定義は社会の様相によって変わると思っています。社会の大多数が正常、そこから偏った少数派が××障害とラベリングされている、と思っています』

わたしもその通りだと思います。
「多動性障害」の他にも、たとえば「同性愛」や「性同一性障害」、「発達障害」なども分かりやすい例ですね。

他にもおもしろい例として、「幸福」も精神疾患なのではないか、という Bentall さんの 1992年の論文 ("A proposal to classify happiness as a psychiatric disorder": https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/1619629/) があります。(「空飛ぶスパゲッティ・モンスター教」のやり方に似ていて、個人的にはとても好きな考え方です)

まず、ある状態が「疾患」であるためには、その状態によって生命の危険性が高まる必要がありますが、それだけでは「疾患」とは認められません。生命の危険性が高まり、なおかつその出現頻度が低い必要があります。たとえば老衰は死に至る状態ですが、多くの人が辿る「正常」なプロセスなので、老衰は「疾患」ではありません。(現在まで生き残っている生体は種としてその環境に適応しているはずなので、その個体の大部分は環境に適応した「正常」な個体であるはずです)

そのような面から「幸福」を考えてみると、「幸福」は例外的な感情状態なのでその出現頻度は低いです。また、「幸福」の合併症として肥満や過剰飲酒が存在し、それらは中長期的に生命の危険性を高めます。以上より、「幸福」は生命の危険性を伴う現象であると考えられます。

また、精神疾患の特徴として「非合理」が挙げられます。「非合理」に行動をしてしまうと、簡単な目標すら達成できず、社会的な有用性は激減し、自身の行動の理由も説明できず、中立の考え方は不可能です。

そして「幸福」な人々も同様に、「幸せ」なあまりに時として簡単な目的すら達成できず、期待された有用性を発揮できず、また認知機能にも障害があり、たとえば過去の嫌な出来事を思い出すことが非常に困難です。また、自分なら環境を制御できると過剰に信じていたり、まわりの人たちも自分の非現実的な意見に同意していると偏った判断をし、自他の比較の際などに明らかに公平性を欠いています。

これらの根拠より、「幸福」はまさに「精神疾患」以外の何物でもないといえるでしょう。


『定義が全くできていないのではなく、「とりあえずの定義」なのだと思いました。(DSMなど。)そして、社会の変質によって、とりあえずの定義が改訂されていっているのだと思います』

まさにその通りなのですが、ここにはひとつ大きな問題があります。
精神病の定義は、もちろんいまの我々には正確な定義など不可能なので、おっしゃる通り「とりあえずの定義」をするしかないのですが、その「とりあえずの定義」がいつまでたっても改訂されない問題があります。
精神病はある種の理論に基づいて定義されますが、(本文中でもちょっと触れましたが) たとえば向精神薬の理論は、その妥当性を疑わせる証拠が膨大に存在するにも関わらず、長い間その理論はほとんど変わっていません。結果として、その定義もほとんど改訂されません。
その理由として、取って代わるべき理論がない、ということもありますが、いまの理論のままであった方が「薬による治療を推し進める」のに好都合だからだと考えられます。


『パーソナリティへの偏りが反社会的なものであれば犯罪への危険因子も高くなるので、法益を守るためにも治療・矯正が必要であるかもしれません』

ちょっと話は変わってきてしまいますが、個人的には、あらゆる犯罪は正当化されるべきだと思っています。
たとえば人をどうしても殺してしまう人がいたとして、悪いのはその人ではなく、その人が「罪」を犯さずに生きることができない社会の仕組みの方だと考えています。(戦争のような状況を考えてみれば、「人を殺してはいけない」が明らかな誤りであることは誰の目にも明らかかと思います)
理想としては、すべての人は自分の属する「国」を自由に選べるべきであり、その「国」の選択肢の中には人を殺しても良いような無法地帯も含まれるべきです。
もちろん、たとえば「日本」を選んだ人は人を殺してはいけませんが、人を殺したい人は無法地帯で存分に人殺しをする自由が担保されるべきです。
詳細は『あなたは本当に「大人」ですか?』(https://furimako.com/world/grown-up) の記事本文と一連のコメントに記載していますので、もしご興味があればこちらもご参照ください。


『補足ですが、社会の様相によって定義が変わる学は他にあると思っていて、例えば、法学、経済学、哲学など主に人文科学なのかなと思います』

わたしは数学や物理学などの、「社会の様相」とは無関係の学問に強い執着があるので、主に人文系の学問に対して批判的になりやすいですね(笑)
個人的には、どんな学問の世界でも「社会の様相」を俯瞰的に見る視点は極めて重要だと思います。

13. Fully Hatter さん
[2020/12/21 19:58:01 JST(UTC+09:00)]

> 北篠 さん
ちょっと誤解をされちゃったみたいですが、わたしも「心」はあると思っています。
そして、世界が幻想でもハッピーエンドです。

わたしのいいたかったことを簡単にいうと『「無意識」ってすごいですよ』です。

少し考えれば誰でも分かると思いますが、我々は思考の圧倒的大部分を「無意識」に行っています。
朝起きたとき我々は、右大腿四頭筋を収縮させて右足を上げ、その反動を利用して腹筋も収縮させながら起き上がり、その際に頭が後ろに倒れないよう絶妙な力加減で首の筋肉を使って頭蓋骨を支えながら、それと同時に今日のスケジュールを思い出し、今日が平日なのか休日なのかも瞬時に判断し、今すぐやるべきことがないかを確認しながら朝食に何を食べるかにも考えを巡らせます。これらのうちのいくつを「意識」的に行ったか考えてみれば、我々がいかに「無意識」的に普段の意思決定をしているかが分かるかと思います。

14. Fully Hatter さん
[2020/12/22 10:38:31 JST(UTC+09:00)]

地動説が最初に唱えられたとき、多くの人は「そんなことになったら地球が落っこちてしまう」と思いましたが、もちろんそんなことにはなりません。
世界の捉え方が変わっただけで、現実世界では相変わらず太陽は朝昇り夜沈みます。

受動意識仮説が唱えられたとき、突然我々の心がなくなってしまうような感覚がある人もいるかもしれませんが、もちろんそんなことにはなりません。
世界の捉え方が変わっただけで、現実世界では怪我をすれば傷が痛むし、100点をとれば嬉しいし、好きな子がいればドキドキします。

15. 通りすがりの人 さん
[2021/04/07 00:41:01 JST(UTC+09:00)]

自由意志についてネットサーフィンをしていたら当ブログにたどり着き、
その他に興味深い記事であったので公開からだいぶ経過していますが、コメントさせて頂きます。

おっしゃる通り、
精神疾患は、製薬会社の利益の為作られた病である。
つまり、嘘である。
という意見には同意見です。
一理あると思います。

しかし、未だ、原因が不明である為、
科学的根拠を用いた正確な言語化が未だにされていない為、精神科医や製薬会社も統合失調症の本質を誤って判断しており
現在、統合失調症とされているものが、実は、本質的な統合失調症ではない可能性が高いという事はあり得ると思います

つまり、製薬会社や精神科医が統合失調症の原因をよく理解しておらず
統合失調症の薬とされてるものを売り、
統合失調症じゃない人が統合失調症の薬とされてるものを買ってる現状のため
人為的に作られた統合失調症患者が売り上げに比例して増えていくという皮肉。

ただ、個人的に
統合失調症を含めた精神疾患は
定義できる概念として存在していると思います。

つまり、人為的な病や幻想などではなく
この世に概念的に存在しており
明確に定義して原因を言語化できる
本質的な精神に起因する疾患であるという意味です。

では、何故、
定義できないかという壁にぶつかりますが
おそらく、原因として、目に見えない疾患であるからだと推測できます

そして、統合失調症の原因が脳に起因する疾患だと考えられていますが、実は、脳でなく、意識、そのものに起因するものだから、正確な原因の特定及び言語化が困難であるのではないかと。

その上、現在のところ、意識がどのように脳から生じるのかハッキリと分かっていないため、尚更、原因の特定が困難なのではないかと思います。

少し話が逸れますが、個人的に、
意識は脳では説明不可能だと考えています。

死後生存という少し、カルト要素が強く疑似科学的な側面からのアプローチですが
臨死体験や生まれ変わり、予知夢、霊現象の類と言ったものなどが海外の大学(ヴァージニア大学など)で超心理学というれっきとした学問があり、意識が死後も存続するのかということの研究が大真面目に行われています。笑
マジです笑

研究の結果、死後にも意識が存続する証拠が提示されており、人間の肉体の死後も意識が残るという研究結果が示されています。
つまり、意識は脳に宿っていないという事が、近年、示唆され始めています。

もし、それらが本当のことであれば
現代医学においての統合失調症の原因究明のアプローチの仕方として適切なベクトルが向けられていないという可能性を考える事が出来ると思います。

そう考えたら
統合失調症の幻視や幻聴なども
脳に起因しておらず、意識から直接生じていると説明されれば、合点が行くところも数多いのです。

そしたら、そもそも
意識とはなんぞや
自由意志はあるのかないのかと繋がってくると思います。笑

16. Fully Hatter さん
[2021/04/24 13:41:47 JST(UTC+09:00)]

> 通りすがりの人 さん

コメントありがとうございます。
他の記事でもコメント大歓迎ですので、もし何かあればいつでもどうぞ!

基本的には通りすがりの人さんとは同意見ですが、「意識」のくだりで思うところがあるので、そのあたりについてコメントしてみます。

結論から言うと、わたしは、「意識とは何か?」という問いの答えを人類はほとんど手にしつつあると思っています。

そして、その解明への最大の障壁は『「意識」は複雑なものであって欲しい』と (無意識に) 願う我々の気持ちそのものだと思います。
「意識」が複雑に見えるのは、それが実際に複雑だからではなく、複雑であって欲しいと我々が強く想うからでしょう。

「意識」の謎を解くための大きな手がかりは、1983年にすでに我々は手に入れています。

1983年、リベット博士の論文 (https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%99%E3%83%83%E3%83%88) で、たとえば人が指を曲げようと「意識」したとき、その「意識」の約0.3秒前にはすでに指を曲げるための司令が脳から出ていることが分かっています。

つまり、我々が「意識」している (と思いこんでいる) ことはすべて、実際の行動の「後」に、もろもろの辻褄が合うように脳が作り出した幻想である、と言えるでしょう。

前野隆司さんの「受動意識仮説」についての以下の YouTube の動画がとても面白いので、もしご興味があればぜひどうぞ。
https://www.youtube.com/watch?v=Ox8gJEIe5Ac

17. 魔王プートン さん
[2021/09/13 22:09:36 JST(UTC+09:00)]

「精神病は病気ではない」という本出てますね。

18. Fully Hatter さん
[2021/09/17 13:47:58 JST(UTC+09:00)]

> 魔王プートンさん
そういう本もあるんですね。
ちなみに、このページの最後に載せている参考文献も「精神病はほんとに病気なのか?」という問題を扱っている非常におもしろい本でした。
特に、『精神に疾患は存在するか』はとても読みやすい本でしたので、もしご興味があればどうぞ!

参考文献 (再掲)
・北村俊則 (2017) 『精神に疾患は存在するか』 星和書店
・Elliot S. Valenstein (2018) 『精神疾患は脳の病気か?』 みすず書房

どなたでもご自由に書き込んでください。
Fully Hatter が愛をもってご返事いたします。


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