哲学は無意味である

〜「この世界はどうして存在するのだろう?」私が答えましょう〜

こんなお話を考えてみましょう。

『私やあなたが生きているこの世界は、実はすべて夢の中の出来事でした。ですので、あなたの目が覚めたらこの世界はなくなってしまいます。あなたのお友達も、この地球も、目が覚めたらすべてなくなります。そのときにあなたは、自分が本当は、夢の中の世界とは全く違う本物の世界の住人であることに気づくでしょう。その本物の世界にはもちろん、あなたのお友達もこの地球も存在しません。それどころか、人類も重力も、論理的な思考すら存在しません』

このお話が嘘だと本当の意味で証明することはできません。

なぜなら、夢の世界で自分がいくら頭をひねって、答えはこれだ! と確信したとしても、それはただの夢なのですから。
(私もよく夢の中で「世紀の大発見」をしますが、朝起きて冷静に考えてみると、それは何の根拠もない妄想だったりします)

ここからが本題です

哲学には以下のような問いがあります。

『この世界はなぜ存在するのか』
『この世界はどこからはじまったのか』
『この世界に終わりは来るのか』

これらの問いは本質的な問いとされています。

たとえば『どうしてプリンは美味しいのか』という問いがあったとします。
哲学では、その問いにさらに踏み込みます。

『そもそも味覚とは何なのか、美味しいとはどういうことか』
『それ以前に、美味しいと感じている私は何なのか』
『ってか、私のいるこの世界って何なんだ』

このように問いが問いを呼び、最終的に行き着く問いの一つが「世界」の問いです。

しかし、もし先程のお話が真実であれば、これらの問いには何の意味もないことが分かります。
なぜならその世界は夢だったのですから。
そもそもそんな世界は存在しないのですから。

もう一度言いますが、先程のお話が嘘だということは証明できません。

こんな哲学なるものに、一体何の意味があるのでしょうか。
いや、どんな意味もないでしょう。
だって最初から、答えなんて分からないのですから。

それって「哲学」だけじゃなくね? とか思った人へ

たとえば数学や物理学や宗教の世界では事情が違います。

なぜならば

数学は仮定から出発するからです。
物理学は実験結果が「真実」だからです。
宗教は物語こそが「真実」だからです。

「哲学」の駄目なところは、仮定にも疑問が生じえるということです。
本当にこの仮定は正しいのか? という疑問が「哲学」では正当化されます。
先程の夢のお話のように、絶対的な真理が存在しないこの世界で絶対的な仮定などないのに、です。

数学では仮定が「真実」なので、前に進むことができます。
x=2 だと仮定したら 3x=6 で終わりです。
本当に x は 2 なのか? などという問いは生まれないのです。

物理学では実験結果が「真実」なので、前に進むことができます。
ピッチャーが投げる球の速さが 2倍になると、キャッチャーが受ける衝撃は 4倍になりました。
それこそが物理学の「真実」です。
なぜ 4倍なのか? などという問いは生まれないのです。

宗教は物語が「真実」なので、前に進むことができます。
キリスト教では聖書の言葉こそが「真実」です。
本当にキリストは存在したのか? 汝の敵は愛さなければならないのか? などという問いは生まれないのです。

もしかしたらこの世界が夢で、すべてが無意味かもしれません。
それでも我々は、この世界が夢じゃないことに賭けて、前に進むしかないのです。

このページの意図

実は、私は哲学が無意味だとは思っていません。
むしろ逆に、哲学のアプローチには大変な興味を持っています。

『哲学は無意味』としたらどんな矛盾が生じるのか、それを調べてみることがこの本文の隠れた趣旨でした。

なので、次は『「哲学」は無意味である、は無意味である』で自説を完全論破予定です。
(もしくは誰か論破してください)

(2019/8/28 追記) 哲学の定義について

あ さんより以下のようなコメントをいただきました。

哲学を定義してほしい
分かってるいると思うけど、philosophyの原義のままなら、数学も物理学も経済学も哲学の範疇。ドクターの称号がPh.D(Philosopher)の様に。

まず大前提として、「哲学」という言葉が指し示す概念は明確ではありません。
西洋哲学と東洋哲学とを比べてみても全く異なりますが、それ以前にそもそも哲学が「学問」であるのかすら専門家の間でも議論が分かれるほどです。

ですので、哲学の定義というのはそう簡単にできるものではありませんが、まあここはわたしの世界なのでわたしが勝手に定義してしまいます。

(Fully Hatter の哲学の定義)
ソクラテス、プラトン、アリストテレスなどの古代ギリシャ哲学を起源とする西洋哲学から、現代の数学や物理学などの確立された学問の要素を取り除いたもの。学問の一種。倫理学も哲学として含む。特に数式などは使用せずに自然言語を用いてなぜなぜを繰り返すことが大きな特徴。


この主張に賛同する方は、家族や友人に LINE でシェアしたり、SNS に流してみましょう。

キング牧師
最大の悲劇は、悪人の圧制や残酷さではなく、善人の沈黙である。


「哲学」に関連するページ

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Comments

1. やまげ さん
[2017/10/15 10:40:00 JST(UTC+09:00)]

このページの意図、の上の文章が最終的な主張?

ニヒリストだね。この世界に意味なんてないってのにはとっても賛成。意味なんて後付けだよね。どうせ人間なんか猿とそんな変わらんし。

ここ半年くらい無意味であることに耐えられず死にたくなってたんだけど、最近は死にたくなるって衝動含めて自分の選択なんだなって思った。ある時ふと冷静になって、無意味、だから死なないといけないって理屈もおかしいなと。無意味だから、どう思うかってのも自分次第なんだなと。

あと話別だけど、それなりに好奇心あるとやっぱ人間や世界のルーツなんかには興味湧くよね。

だから何ってわけでもないんだけど、記事に関連する最近思ったことツラツラ書きました笑

2. Fully Hatter さん
[2017/10/15 17:39:00 JST(UTC+09:00)]

> やまげ さん
毎度ありがとうございます(笑)

実は、今回は特に主張はありません。
言葉遊びをしてみよう! みたいな、ある種のお遊びですね。
(真面目に哲学をされている方々、申し訳ありません)

そうですね。私も、「答え」が分からないのなら自分にとって都合のいい「答え」を選べばいいのだと思います。
好奇心については、個人的には、「人間や世界のルーツ」よりかは「哲学」というジャンルそもそもや、その方法論に興味があります。

だから何ってわけでもありませんが。

3. @htauphiz さん
[2019/04/10 21:17:19 JST(UTC+09:00)]

本題から逸れる話ですが、物理学において実験結果が真実というのは少しあやしいと思います。
「観察の理論負荷性」という考え方からいうと、観測者が既存の理論の色眼鏡をかけてデータを眺めるので、バイアスがかかる恐れがあります。
本質ではない意見をすみません。

4. Fully Hatter さん
[2019/04/14 20:30:38 JST(UTC+09:00)]

> @htauphiz さん

コメントありがとうございます。

「観察の理論負荷性」は、物理学というよりかは科学全般に対する理論ですね。
確かに統計の世界などでは、サンプルの絞り方やデータの見せ方を工夫することでいくらでも結果を恣意的に操作できます。

ただ、個人的な感覚としては、物理学においては「観察の理論負荷性」はそんなに重要なものではない気がしています。

理由は二つあります。

まず第一に、物理学という学問が数学と極めて親和性が高いことが挙げられます。
あらゆる物理的な振る舞いが数式で記述されるため、その他の科学にありがちな曖昧さが比較的容易に排除できます。
実験結果も大抵は数の世界に落とし込むことができるので、解釈の余地は限定的です。

そして第二に、物理学では実験事実は理論の根拠ではなく反証材料として扱います。
実験事実を集め、それらを根拠として理論を組み立てるその他の科学とは大きく異なり、物理学においてエビデンスの数はあまり意味を持ちません。
反証材料が今の所はまだ見つかっていない、という事実のみがその理論の支えになっています。
上記の理由より、観察結果の解釈で多少のブレがあったとしても、その他の科学と比較して影響度は小さいかと思います。

5. @htauphiz さん
[2019/04/17 21:12:39 JST(UTC+09:00)]

お返事ありがとうございます。
気づくのが遅くなってすみません。

まず、一つ目の物理学と数学の親和性が高いというお話。

私も、物理と数学は親和性が高いと思います。しかし、だからこそ危険だと思うのです。

例えば、ある物質ついて電気抵抗の温度依存性の実験結果が得られたとしましょう。我々は、それと似た物質の電気抵抗が、温度の二乗に比例するという情報を知っていたとします。最初の物質の電気抵抗が、それと同様の曲線を描いていたら、我々はT^2でフィッテングしたくなると思います。実際はT^3かもしれないのにです。

そう言った意味で、「解釈の余地は限定的」とは言えど、理論負荷による間違いの可能性は十分に残ると考えられます。


次に、二つ目の実験事実は反証材料というお話。

反証の網を潜り抜けて生き残った仮説は、確かに信憑性が高くなります。かと言って、「反証材料の未発見=事実」というのは、些か無理があるかと思います。言うなれば、「暫定的な事実」ではないでしょうか。

私が、本文中の『物理学は実験結果が「真実」』という言葉にひっかかったのは、まさにこの辺りの話です。

いくら実験を重ねても、決して真理には到達できない。だから、物理学は(他の科学も)続いているのではないでしょうか。

以上のことから、私は実験結果が真実だとは言い切れないと思います。

長文失礼しました。

6. Fully Hatter さん
[2019/04/18 20:46:36 JST(UTC+09:00)]

> @htauphiz さん
『例えば、ある物質ついて電気抵抗の温度依存性の実験結果が得られたとしましょう。〜』

この例においては
[実験結果] 物質X の温度T が 100℃ のとき、その電気抵抗R は 10Ω でした
[理論] X について R = cT^2 or cT^3 の関係が成り立つ
かと思います。
わたしが物理学における「真実」と表現したものは上記の実験結果です。
「どうして上記の条件下で 10Ω になるのか」という問いは物理学では意味を持たないため、実験結果を「真実」と言っています。

『「反証材料の未発見=事実」というのは、些か無理があるかと思います』

「反証材料の未発見=真実」の誤植でしょうか?
わたしは物理学において完全な理論は存在しないと考えています。
どんな素晴らしい理論でも、実験事実という「真実」には敵わないからです。

『いくら実験を重ねても、決して真理には到達できない。だから、物理学は(他の科学も)続いているのではないでしょうか』

これはそうだと思います。
学問が終わるときというのは、その学問の中の問いのすべてに答えが出てしまったときなのでしょうね。
(その他のパターンとしては、その学問の問いの立て方それ自体が間違っていた、なども考えられますね)

7. せる せろり さん
[2019/04/18 21:10:30 JST(UTC+09:00)]

はじめましてこんにちは。
この問題意識、わかってる人に久しぶりに出会えてうれしいです。
この問題は答えを二つ用意しますよね。哲学の基盤はない、というのと、そうはいってもある、という二つ。
前者がニヒリズムだとすると、後者は可能無限的な立場。
とりあえず我々がそれを夢だとしか証明できないにしても、夢が見てしまったことに関するその根拠。デカルト的な発想かな。
私はこの世界の構造などは、この世界の経験を成立させるための後付けだと考えています。
構造などはもともとどうでもいいと言えばよくて、物理学にしても、世界の感覚経験をしようという要求が先にあって、それからそれを説明するために出現しただけだと思います。
同じように物自体とか、イデアとか持ち出せば、世界を夢見ようという経験を、構造的に支えることができる。
イデアを考えるときは、そこにはまだ時間も空間もないので、いろんな概念が分化されずにある。数学も科学も、じつはイデアを認めれば、さらに起源を説明できる。

哲学の面白さはその辺ですね。
イデアに接続するといろんなことが言えてしまう。
その当のイデア自体の無意味さがたまらなくおもしろくい。

無意味は無意味ではないって、分かりやすいことばかり求める世間のために、ステッカー作って貼っておきたいくらいです。
乱文で失礼しました。

8. Fully Hatter さん
[2019/04/18 22:31:50 JST(UTC+09:00)]

> せる せろり さん
コメントありがとうございます。

『私はこの世界の構造などは、この世界の経験を成立させるための後付けだと考えています』

まさに哲学やってる人の考え方ですね!
その考え方に、そう簡単に矛盾を指摘できないところがこの世界の面白いところです。

ただ、個人的な感覚としては、この世界は構造ありきなのでは、と思っています。
(というか、そうであって欲しいという願望にも近いですが)

この世を成り立たせる法則がまずあって、その法則にしたがって世界が構成されている、という考え方ですね。
たぶん、この考え方にもそう簡単には矛盾は指摘できないのではないかと思います。
(こんなページを書いといてあまり哲学に詳しくなくて恐縮ですが、哲学の世界ではせる せろりさんの考え方のほうが主流なイメージがあります。もし違っていたらぜひご指摘下さい!)

『物理学にしても、世界の感覚経験をしようという要求が先にあって、それからそれを説明するために出現しただけだと思います』

自分の感覚経験の説明のため、というよりかは、感覚を通して知り得る物理現象の裏に隠れた「偉大な何か」を解き明かしたい、というのが物理学のベースかな、と思っています。

物理学者にとって、理論を作り上げる作業というのは神の存在に触れようとする営みに近く、経験の合理的な説明を求めることとは大きく異なるかと思います。

『同じように物自体とか、イデアとか持ち出せば、世界を夢見ようという経験を、構造的に支えることができる』

わたしが哲学に興味を持っていたのはまさにこういったところで、一般的な科学とは明らかに違う次元でものを考えられるところが素晴らしいですよね。
(まあ、まだ自分が望む答えは得られていないですが笑)

■ 最後に
哲学に造詣が深い方には、自分の考えがどのように目に映るのかにとても興味があります。

もしよろしければ、ぜひ他のページにもコメントいただけると嬉しいです笑

9. せる せろり さん
[2019/04/18 23:46:15 JST(UTC+09:00)]

>Fully Hatterさん、コメントありがとうございます。

『まさに哲学やってる人の考え方ですね!
その考え方に、そう簡単に矛盾を指摘できないところがこの世界の面白いところです。 』

そうか、これが哲学やってるってことなんだ、って改めて感じ入ってしまいました。
矛盾というか、この考えがどれだけ世間的な常識と違うかは知ってるんです。
これはそれこそイデア界から持ってきた概念というか。
因果関係が生じる前だからこそ、ありうる思想なのですよ。
いいかえれば、結果が原因を作る、と言ってます。
でも、人間の記憶に関して言えば、それはあながち嘘でもないというか。


『自分の感覚経験の説明のため、というよりかは、感覚を通して知り得る物理現象の裏に隠れた「偉大な何か」を解き明かしたい、というのが物理学のベースかな、と思っています。』

そこに法則(本質)を見出そうという試みは確かに物理学をする動機になりえますね。実際、アインシュタインなんかそうでしょうし。
というか、それだと実は哲学と同じなんですけどね。哲学は感覚をベースにすることも疑うだけです。


『物理学者にとって、理論を作り上げる作業というのは神の存在に触れようとする営みに近く、経験の合理的な説明を求めることとは大きく異なるかと思います。』

物理学者は理論を物語のように紡ぎだす。なんて言ってみたり。

なんというか、説明の方向に向かう科学は哲学に近いと思います。
それを応用に向けようとするのが技術で、むしろここに注目すると、構造が先、が確定すると思います。
思想的な中心に向かうのではなく、拡散の方向で雑多な機能を生むので、現代的な考えではないでしょうか。
少し現代社会に秩序が欲しいと思っている人からすると、技術偏重は怖い風潮です。


『もしよろしければ、ぜひ他のページにもコメントいただけると嬉しいです笑』

とてもおもしろいテーマ群だったのでコメントいれさせていただきました。
あえて自分の偏重を際立たせるため、多少演出も入ってます。
よろしくお願いします。

10. Fully Hatter さん
[2019/05/06 20:01:24 JST(UTC+09:00)]

> せる せろりさん
他のページも、いろいろコメントありがとうございました。
今後とも、末永くよろしくお願いします笑

11. Xin さん
[2019/05/09 02:36:22 JST(UTC+09:00)]

NHKの深夜番組で、哲学者の意見を聴いてみよう!…みたいなのがあったと思うんですが、あの番組のメッセージ性に一理あるなと思って、哲学ってもともと人間が上手く苦しまず生きる上で編み出した学問(…もしくは知識体系?)だと思うんですよね。
のほほーんと暮らしてるノンキなAさんは悩みがない。失敗してもイライラしないし、楽観的で苦しまない。だから考えない。もしくは改善したいなどとは思わない。したがって彼女に哲学は不要です。
これは動物もいっしょ。低次の生き物は感覚に、すでに改善された遺伝子の記録がある…だから人間みたいな複雑な悩みとは無縁である。哲学は要らない。
私はこう考えるのです。よりよく生きる哲学としての哲学なら、つまり昔の人たちの説いていたような哲学なら、悩める人々には存在意味は大きいです。
対して…結論を出せない哲学はまるで無意味です。結論を出さないことがそのまま美学になりそうで如何にも無意味じゃないですか!少なからず昔の人たちも陥ったものではあると思います。
立つには支えが必要です!何かしら人間は何かにすがっているのだと思います。ニヒリズムの到来だとか言われている今こそ、そのような幸福を目指す自分の結論を探す哲学に邁進すべきなのではないかなと。
論点ズレているとは思いますけども書きました。…私も中学生のころニヒリズム少年になって、死にたくなりました。生きるのが死ぬよりも良いとは必ずしも言い切れないけれど、面白いのが好きなのはみんな同じだと思うのです。それを探すか、諦めるかが人生のコンティニュー、ゲームオーバーだと思います。

12. Fully Hatter さん
[2019/05/14 18:53:25 JST(UTC+09:00)]

> Xinさん
おっしゃる通り、よりよく生きるための哲学には大きな意味があるかもしれませんね。

Xinさんのコメントを読んでいてふと、(自分も含め) 大きな絶望を経験した人は哲学に親しみを持ちやすいのかもな、と思いました。

辛い現実の中で必死に自分の生きる理由を見出そうとすることが、きっと哲学の本質的な部分に関わっているのでしよう。

13. せる せろり さん
[2019/05/17 23:35:09 JST(UTC+09:00)]

こんばんは。
Xinさん
横やり失礼しますね。
『結論を出せない哲学はまるで無意味です。結論を出さないことがそのまま美学になりそうで如何にも無意味じゃないですか!』

有意味なのが本当に意味ありますか?ということになります。
結論を出さないで待つ、ということができないがために起こってる悲劇も現実には多いと思います。
わからないことをわかならないと認めるというのも、一つの結論でしょう。
また、真実というのはたとえわかっていても簡単には表現できないと思います。
結論を言わないようにうんちくをこね回すというのは哲学でも何でもないですが。
それと経験界のことについては、一般論は基本なく、すべてがケースバイケースだと思います。
普遍性のある哲学であっても、当てはまる人にとっては当てはまるし、
当てはまらない人にとっては当てはまりませんと思います。
弱者と強者の哲学は違います。どちらが正しいというわけではなく。
物理学とか形而上学クラスになると、かなり万人に当てはまると考えられるでしょうけど。
あと、世界観と倫理観はかなり密接に関係していると思います。


14. もめん さん
[2019/05/29 23:01:47 JST(UTC+09:00)]

哲学が「本当にこの仮定は正しいのか? という疑問が「哲学」では正当化され」るというエビデンスは何でしょうか?
また、数学的アプローチの出発点は「なぜ?」だと私は思います。
Fullyさんは、哲学の「なぜ?」と数学においての「なぜ?」の相違点は、何だと考えられているのでしょうか。
この記事ではその相違点が明確にされていないと思いました。もしかすると、数学と哲学にはその研究対象が異なるというだけかもしれません。それについてはどうお考えでしょうか。

15. Fully Hatter さん
[2019/06/01 16:13:06 JST(UTC+09:00)]

> もめんさん
難しいことをおっしゃいますね!

『哲学が「本当にこの仮定は正しいのか? という疑問が「哲学」では正当化され」るというエビデンスは何でしょうか? 』

結論からいうと、そのようなエビデンスは存在しないかと思います。
そもそも「哲学」という言葉が指し示す概念自体が明確なものではないので。
Fully Hatter が勝手に作り上げた哲学のイメージ、ですね。

ただ、哲学科の教授の話や研究者の本などを読む限り、あながち的外れな表現ではないと思っています。


『数学的アプローチの出発点は「なぜ?」だと私は思います』

すみません、ちょっと理解が及ばなかったです。
本文でも書いていますが、わたしは数学は仮定から出発すると考えています。

逆に、数学の世界に「なぜ?」ってあるんですかね?

16. tower さん
[2019/06/08 10:45:46 JST(UTC+09:00)]

『「哲学」は無意味である、は無意味である』が意味があるかないかは、貴方の置かれた次元によるのではないかと思うよ。
冒頭の「夢の中」の話のように、私たちは誰かの妄想に巻き込まれて、自分が存在しているように見えているだけではないでしょうか。
この世が偶然存在する可能性は、チンパンジーにでたらめにキーボードを打たせてハムレットができる確率より小さいですよ。
で、この世を創造した主体があるはずで、世間ではそれを「神」と呼んでいるんだと思います。
なぜかは不明だが、私たちは、「意味」が存在するように錯覚して、それを求めるように「神」によって設計されているのではないでしょうか。
神の高次元から見たら、それはこの世の創造する際のパラメータに過ぎないでしょう。

17. Fully Hatter さん
[2019/06/30 20:00:57 JST(UTC+09:00)]

> towerさん
たしかにそうですね。
でも、「神」の存在が我々には直接的に認知できないという事実はとても興味深いと思います。

「神」が我々を作ったのならば、その事実を我々は証明できてもいいような気がします。

18. あ さん
[2019/08/14 20:42:50 JST(UTC+09:00)]

哲学を定義してほしい
分かってるいると思うけど、philosophyの原義のままなら、数学も物理学も経済学も哲学の範疇。ドクターの称号がPh.D(Philosopher)の様に。

19. Fully Hatter さん
[2019/08/28 23:38:55 JST(UTC+09:00)]

> あ さん
コメントありがとうございます。
本文に追記する形で回答しました。

20. 哲学徒 さん
[2020/07/16 04:22:07 JST(UTC+09:00)]

ここでの哲学の意味は「形而上学」ですね。おっしゃる通り、形而上学は前提条件に対して無限後退的に疑問を立てれるわけですが、それは実際のところ、デカルト哲学におけるコギトによって否定されています。つまり、あらゆるものを疑えられるわけですが、その時に少なくとも考える私(正確には、人格的な私では全くなく、精々のところ"考えるという作用")が存在しているというのは確からしいということ、これがデカルト的コギトの重要な発見なわけです。もっとも、デカルトはその発見の後に、神の回復というようなことをしており、それが指摘されているのですが。
また、形而上学が無意味かという問いは、なかなか答えるのが難しいところでもあります。というのも、形而上学に限らず、あらゆる哲学はそれが考え出された歴史的背景があるのです。それは例えば、過去の哲学者が十分に言及できない問題に答えようとしたり、はたまた哲学者自身が置かれた状況などがあるわけです。例えば、「神は死んだ」と宣言したニーチェは非常にアンチキリストな思想を大々的に主張するわけですが、それを彼が置かれた時代背景を抜きにして考えることははっきり言って乱暴に過ぎます。そうしたことは、無論形而上学に関しても言うことが出来ます。確かに現代の我々からすれば、なぜそんな稚拙な問いを立て、稚拙な方法で答えようとしたのか馬鹿らしく思えてしまえます。しかし、それは歴史が背景に隠れてしまっているからにすぎません。したがって、我々が形而上学が無意味だと述べるのはもっともな感覚ではありますが、よく考えてみればそうとも言い難いものです。
何が言いたいかと言いますと、もし哲学にご興味がおありなら、哲学者がしっかりと書いた書物に飛び込んでみてくださいということです。
お勧めには、デカルト『方法序説』やカント『プロレゴメナ』を挙げておきます。
とはいえ、初学者にとってこの二冊もなかなか骨が折れると思われますので、まずは各種入門書から読むのが良いかもしれません。例えば、NHK100分de名著シリーズなどは初学者や教養として身に着けたい方には良いでしょう。

21. 哲学徒 さん
[2020/07/16 05:28:22 JST(UTC+09:00)]

連投して申し訳ないのですが、先のコメントに少し言葉を足しておきたいと思います。
 ところで、本記事の冒頭の想定は「水槽の中の脳」と呼ばれるものです。つまり、我々の"現実"はシミュレーションに過ぎなく単に脳が見ている夢なのではないかという思考実験ですね。これについては、様々な哲学の様々な返答が考えられるわけですが、カントを例にしましょう。
カントにおいては、我々の感覚を抜け出た世界=「脳」が実際にある世界を「物自体」と述べます。しかし我々人間は物自体を認識しているのではなく、物自体が与える感覚=データを統合して何か物を認識している。このようにカントの認識論を乱暴にまとめることが出来ます。しかし、カントは物自体を認識することが出来ないとはっきりと断言しています。それは、人間が感覚抜きに対象を認識することが出来ない=能力の限界があるということから導いています。何の根拠もなく言っているわけではありません。そのようなカントは、しかしだからといって哲学は無意味だということはありません。なぜなら、ここでは、認識能力の限界が発見されているのであり、これが重要な帰結なわけです。すなわち、「脳」が実際にある世界=物自体の世界がたとえどのようなものであろうとも、少なくとも、ここに現にいる我々にとっての認識能力の限界を発見しているわけです。この発見を無意味だというのならば、この世で成立しているあらゆる諸学問や価値全て、そして世界自体が無意味になるのではないでしょうか。
 ところで、先に私は形而上学は稚拙だと述べていましたが、これを撤回しなければなりません。というのも、今までのカントの話は『プロレゴメナ』に書かれていることでもあるのですが、この本の正確なタイトルは『およそ学として現れ得る限りの将来の形而上学のための序論(プロレゴメナ)』です。カントは、従来の形而上学と決別するために、このようなタイトルをつけたわけです。それは、従来の形而上学が学問として扱うにはあまりにも稚拙であったためです。つまり、今や私はカントより前の形而上学は稚拙に見えてしまうと言わなければなりません。

22. 哲学徒 さん
[2020/07/16 05:36:11 JST(UTC+09:00)]

また失礼、重大な書き間違いをしています。カントが述べる認識能力の限界について、先のコメントでは帰結と前提が同じになってしまっています。認識能力の限界は前提ではありません、帰結です。このような帰結をカントがどのように導き出すかという点については、私の体力が切れましたので是非解説書や入門書などを漁っていただけると幸いです。

23. Fully Hatter さん
[2020/07/19 12:02:04 JST(UTC+09:00)]

> 哲学徒 さん
詳細でかつ丁寧なコメントありがとうございます。
実はわたしは、哲学徒さんのご指摘にかなり近いことを考えていました。

この文章を書いたあと、たまたまご縁があってカント研究の第一人者の方のもとで純粋理性批判を学ぶ機会があったのですが、その際に、(カントさんのこの考えって、まさにわたしがこの文章でいいたかったことそのものではないか?) と思いました。ちょっと傲慢ですが笑
このことを自分で言うのは恥ずかしかったのですが、哲学徒さんのコメントを読む限り、わたしのこの感覚はあながち的外れでもなさそうだったので少し安心しました。

以下詳細についてご回答させていただきます。
(ちょっといくつか批判もあって、気分を害するかもしれませんがご容赦ください。大前提として、わたしは哲学徒さんのことが好きです)

■ 哲学徒さんの主張の要約
・Fully Hatter が「哲学」といっているものは「カント以前の形而上学」である
・「カント以前の形而上学」は仮定にも疑問が生じえる (前提条件に対して無限後退的に疑問を建てられる)
・「カント以前の形而上学」はカントの「物自体」の概念によって否定されている

■ Fully Hatter の解釈
・カントさんの考えとわたしのこのページの主張は本質的に等価である
・カントさんの純粋理性批判によって「カント以前の形而上学」は無意味であることが示され、かつての哲学的な方法論そのものは終焉を迎えた
・よって、カント以前の哲学をいくら学んだところで、そこに「真理」は存在しない

■ 気になった点 ①
「哲学の理解には歴史的背景が重要」という考えに違和感があります。
わたしは、「真理」に近づくための学問体系においては歴史的背景は重要たりえなえい (歴史的背景が必要とされる学問はすべて「真理」に近づいていない) と考えています。

物理学の世界だと分かりやすいですが、「アインシュタインの相対性理論」を理解するためには、それ以前の「ニュートンの運動方程式」を理解する必要はありません。
なぜならば、「アインシュタインの相対性理論」は「ニュートンの運動方程式」の拡張であり、前者に後者は含まれるからです。
「真理」に近づくとはこういうことではないかな、と思う次第です。

また、もし歴史的背景の理解が本当に必要なのであれば、時代が進むにつれてその学問の理解に必要な知識は膨大になっていき、いつかは人間のキャパシティを超えることは想像に難くありません。
その意味でも、歴史的背景の理解を必要とする学問で「真理」に到達できるとは到底思えません。

現実世界の今この瞬間の問題を解決するためには歴史的背景の理解は必須ですが、普遍的真理を追い求める世界で、過去の誤りを一つ一つ理解することに意味があるとはあまり思えません。

■ 気になった点 ②
『(カントの) この発見 ( = 認識能力には限界があること) を無意味だというのならば、この世で成立しているあらゆる諸学問や価値全て、そして世界自体が無意味になるのではないでしょうか』
これについては本文でも触れていますが、無限後退的に疑問を建てられない数学や物理や宗教の世界では事情が異なると考えます。

■ ちょっとした補足
カントさんの考えに近いことが、実は「量子論」の世界にも存在します。
「量子 ( = 原子や光などの極めて微小な粒)」の世界ではあまりに粒が小さいため、たとえばその位置や速度を計測しようとするだけで、その粒の動きに影響を与えてしまいます。
ですので、実は人間は、原理的にその粒を正確に計測することはできません。
物理学の世界でも、この世には原理的に知ることのできない領域があります、というお話でした。

24. Fully Hatter さん
[2020/07/19 12:19:35 JST(UTC+09:00)]

いまちょっと思ったのですが、「哲学」「物理学」「宗教」「禅」などはすべて、方法論が違うだけで本質的には同じことなんじゃないかな、とふと感じました。
どれも全部、『触れることも感じることも、考えることすらできない「何か」について、なんとかその肌触りを得ようともがく試み』なんじゃないかな、と。

25. 哲学徒 さん
[2020/07/19 18:12:46 JST(UTC+09:00)]

> Fulley Hatter さん
 おそらく、お互いに根本的なところですれ違っているようです。それは哲学における「前進」と「真理」の取り扱い方についてでしょう。
 Fulley Hatterさんは学問は「前進する」ものとお考えになられていると思うのですが、それは哲学においては素朴な発想として批判されます。確かに、哲学者は既存の哲学に対して不満があるからこそ刷新を図るわけですが、しかしだからといって、それが単純に「前進」であるとは捉えられません。哲学の営みではそもそも何をもって「進歩」とするのかという価値観自体が反省されなければなりません。その点で、単純に既存の哲学だからといって切り捨ててしまうという態度は誠実ではありません。無論、ヘーゲルなどを思い浮かべてもらえれば、哲学において進歩史観も見られ得ることではあるのですが、それはヘーゲルが単純に「進歩」を信じたからではなくそこには根拠があるのです。ですから、ある意味で哲学とは根拠づけの営みでもあるわけです。
 また、素朴に「真理」に近づくという発想もまた哲学において批判されることです。これもまた、何をもって「真理」とするのか、さらにはそれを我々は知り得るのかといった問いが古代西洋哲学の時代から問われてきました。これもまた、哲学が根拠づけの営みであるということの一つの表われです。
 Fulley Hatterさんに限らず多くの人々は真理や前進といったことを無批判に受容されておられると思うのですが、それ自体が哲学において重大な問題なのです。このように哲学というものは非常に曖昧かつ広大なものを対象にしています。それの是非もまた哲学の内で問われているのではありますが。
 ここからは私自身が哲学を学ぶ上での態度の話なのですが、私はある哲学を学ぶ上で、その哲学者にとって深刻な問題意識があってその哲学が書かれていると考えます。それは、つまり、その哲学者の生きた時代や思想状況、哲学の系譜を考慮して、その哲学を学ぶということです。そこでは、何が正しいかが問題になっているのではなく、どのように世界や人間などを理解すべきかが問題になっているのです。そうした観点でいえば、哲学と思想というのはほぼ近似的なものではあります。例えば、ニーチェの著作は哲学なのか思想なのか非常に曖昧です。また、こうした観点なしに哲学を学ぶということは危険ですらあるのではないかと思うのです。つまり、それはデリダやドゥルーズが問題とした"正統"であるということの無批判な受容を、哲学全体の線形的な発展という捉え方で引き起こしていないかということです。それに、哲学と一概に言えはするのですが、実際のところ、個々の哲学で用いられている用語というのは同一の内容を指していないこともあり、哲学全体が何かある一つの合意を得て動いているわけでは全くありません。これはいくつか個々の哲学を学んでいくと実感できることで、この点が哲学を他の学問と類似的に捉えようとすると失敗してしまう要因の一つでもあります。
 哲学においては、哲学自身が用いる諸概念そのものや価値観そのものがラディカルに問われなければなりません。このことそのものもまた、一つの価値観であるので問われるべきことでもあるのです。とすれば、もはや何も言えないのではないかと思われるかもしれません。実際、私は哲学を学んでいるうちにそうした袋小路に入り込みました。しかし、それでもなお、私という条件において問題意識が頭をもたげてくるのです。それはつまり、私自身が置かれている歴史的条件や思想状況などの上での問題意識なのです。そうした段階に至って、自らの問題意識に基づいて思考するということこそが哲学者がまさにしていることなのだと思ったのです。ですから、哲学全体が他の学問と同じ意味で学問だとは思いません。
 まとめておきますと、ある哲学を取り扱う時には、その哲学がどのような問題意識のもとに思考されているのかを差し引くのは誠実ではありませんということです。そうした問題意識は、歴史的背景や思想状況、哲学の系譜などから形成されています。それは非常に人間臭いことであって、自然科学からすれば不自然なことに写るかもしれませんし、その点で自然科学とは全く異なったものです。また、哲学全体を全て知り尽くしている必要はありません。無論、西洋哲学史は抑えておくと何かと楽ですが、全てを知ることは出来ません。営みとしての哲学をする上で、初めに重要であるのは哲学者の問題意識です。そして、哲学を学ぶということは、絶えざる思想の相対化でもあるのです。とはいえ、ここまで述べてきた「哲学とは何か」というのは私個人の見解であり、学問的に正しいものとして哲学を再建したいという人々も無論います。

26. Fully Hatter さん
[2020/07/20 22:14:19 JST(UTC+09:00)]

> 哲学徒 さん
こんなにも分かりやすく丁寧にご回答いただきとても感謝します。(どこかの哲学科の教授の方ですかね?)
哲学においては「前進すること」や「真理に近づくこと」そのものを批判しうるということ、哲学は根拠づけの営みであること、また、哲学を学ぶ上で(問題意識や時代背景を含めた)その哲学者のアプローチそのものを学ぶことに意味があること等、わたしにとって新鮮な発見が数多くありました。
わたしはずっと、なぜ哲学は何百年も前の哲学者の文章にこだわっているのか? それは哲学が進歩していないことの証左ではないか? と思っていましたが、その答えがやっといま分かりました。

また、コメント中の「不誠実」という言葉もとても興味深いと思いました。
わたしは自然科学寄りの人間であり、たとえばある理論の誤りを指摘することは自然なことで、それは批判される側も望むところ、というのが基本的な姿勢だと思いこんでいました。
ですので、哲学においてはそれが「不誠実」になりえるというのは、純粋に面白いな、と感じました。

もしご興味があれば、ぜひ他のページについてもコメントいただけると嬉しいです。

27. 無極 さん
[2020/07/20 23:13:29 JST(UTC+09:00)]

はじめまして。常々、似たような考え方をする人だと思い興味深く観察していましたが、機に乗じてお話しようと思います。
冒頭のお話はバートランド・ラッセルの世界五分前仮説と似ていますね。人類が認識に依拠してしか思惟できないがための否定限界を用いた古典的な思考実験です。
それらの実験に現れているように、我々と認識は不可分なものです。認識無くして、我々は哲学することが出来ません。科学においては認識した世界を世界そのものと看做す宗教でこれを克服するところですが、狭義の哲学においては、あらゆる前提は取り払わねばならぬものと思っています。「前提は取り払わねばならない」という前提ですら。
このまま無限後退しても仕方ないので切り上げますが、哲学の袋小路はまさにここにあると言ってもいいでしょう。我々は答え合わせが出来ません。私はこれを、高次哲学(勝手に命名)として切断し、あらゆる答えを(四角い丸、のような矛盾したものでさえも、究極的にはそれが違うと我々に判断できるところではないので)容認し、ひたすら答案用紙を書き連ねるのが、哲学の姿勢としては正解なのかな、と思っています。(但し、我々には判断できないということも判断出来ず、このような判断不可能性は、根本的にどうかは不明ですが、我々にとっては現実として差し迫っています。この高次哲学という概念においてもここで宗教的にならざるをえなく、完全な哲学は記述不可能なのでしょう。断定は出来ませんが。)
話が逸れましたが、このような切断を行うと、比較的スッキリするかなと思います。高次哲学に対して、科学のような宗教性を受容し、例えば認識は一応信じてみたり、最低限の前提や仮定を置く哲学を私は低次哲学と勝手に呼んでいます。
例えば、無から有は生まれないという前提を置くと、哲学においては物理主義が正しいと言えると考えられます。お恥ずかしながらこれより前のコメントで初めてカントの「物自体」という概念を知ったのですが、唯物論的、物理主義的な世界そのもの(カントの言う、物自体)にあって、感覚情報を媒体として表象世界を脳内に生み出し、またそこに住んでいるように感じながら、さも世界そのものに住んでいるように錯覚しているのだと。
ここにおいて、哲学が無意味である、という命題は真とも偽とも言えまして、そうなると命題とすること自体誤りなのですがそれはさておき、我々にとってどうしようもない次元は留保の後放逐し、思惟可能な次元に甘んじるのが、我々にできる精一杯なのだと考えています。
私は哲学を「世界を眼差す営為」「世界の在り方を探る学問」と捉えています。この意味において、広義では自然科学(古来には自然哲学)や宗教の世界観説明が含まれうるのではないでしょうか。他方、哲学をいくら広げても倫理や、宗教の教義的側面とは分断されていると思います。
倫理や教義は、世界の在り方ではなく、人の在り方を探る営為なのではないでしょうか。この故に、私は混同されがちな哲学と倫理の間に隔絶を見ます。むろん、人は世界に包摂されるところなので、自然科学などと同じく倫理を哲学の一部と解釈することもできますが、倫理は「どうあるか」、つまり世界の一部としての人間より、「どうありたいか」「どうあるべきか」、人間が目指す場所を……眼差すというよりかは、「置く」「定める」行為だと。
長くなりましたが、自分の基底的な哲学観と深く関わる記事だったのでつい熱くなってコメントしてしまいました。他人様のプラットフォームで自論(それも目新しいものでもない)を書き散らしてしまい、非礼を詫びるのみです。それでもお話してみたかったので……!
ここまで読んで頂いたのであれば、それに感謝しつつ、締めに困ったのでこれを結びとしたいと思います。

28. Fully Hatter さん
[2020/07/21 20:51:02 JST(UTC+09:00)]

> 無極 さん
熱いメッセージありがとうございます!笑

「高次哲学」の考え方や、哲学と自然科学、宗教、倫理等との関係性についての無極さん独自の考察、興味深く拝見しました。

他の記事についても、ぜひコメントお待ちしております!

29. 北篠ユウ さん
[2020/08/08 11:33:35 JST(UTC+09:00)]

この記事を見て、俺は気づくことが出来ました。

やるべき事は、悲観して諦めたり、グダグダ考えたりすることじゃなく、

世界がどうあって欲しいか願い、やるべき事をやって、目標に向かって一心不乱に努力したり、好きなことをすることだって。

自分の可能性は自分でも分からないから。世界が本当はどういう仕組みなのかなんて分からないから。

だからせめて、賭けずに終わるより、何かに賭けてみることが肝心だと。

……長文失礼しました。素敵な記事を書いてくださった貴方に感謝します。(`・ω・)ゞ敬礼っ

30. Fully Hatter さん
[2020/08/08 16:56:53 JST(UTC+09:00)]

> 北篠ユウ さん
コメントありがとうございます。
まさにそれが、この文章でわたしが表現したかったことです!

もしご興味があれば他のページも見てみてください〜

31. おさる未満 さん
[2020/10/08 12:07:07 JST(UTC+09:00)]

あっちゃんのガイドを頼りにここへたどりつきました。
見事なまでの「哲学場」になっていますねぇw (^o^)v

「真理」以上に、自ら問いかけざるを得ない「何か」を誰しもが抱えていて、
少しでもそれに近づくためにもがきあがき問い続ける姿自体が哲学なのかなと。
答えじゃないんですよね。だいじなのは。

あ、そういうと誤解を招きますかね…w
「もしかしたら(というよりも恐らく)答えはないのかもしれない」という
予感/不安に抗いつつ、
少しでも(直観的に)目指すものへ進もうとし続ける人間としての意思
は尊いし、いつも人を惹きつけるものだなと思います。はい。

しかし、ブログ(?)記事にこれだけ熱心なコメントがつくのって、
ふつうのことなのでしょうか?
すごい!と思うのですが。僕は。

ありがとうございますっ。(^^)/~~~

32. Fully Hatter さん
[2020/10/11 15:08:15 JST(UTC+09:00)]

> おさる未満 さん

お褒めの言葉ありがとうございます!

『「真理」以上に、自ら問いかけざるを得ない「何か」を誰しもが抱えていて、少しでもそれに近づくためにもがきあがき問い続ける姿自体が哲学なのかなと』

まさにそうだと思います。
ただ、ここには注意しなければならない大きな問題があると思っています。
「歩みを進め続けるのが哲学であり、歩みを止めるとそれは宗教となる」とよく言われますが、わたしは、「歩みを進め続けること」はそう単純ではないと考えています。

自由とは何か、幸せとは何か、わたしとは何か、など、答えが分からない問いはこの世に無数にありますが、それらを問い続けることは本当に「歩みを進め続けること」といえるでしょうか?

たとえば「三平方の定理」のアイディアに自分で気づき、その証明に躍起になるあまり、(誰かに聞いてみたり本を読んで見ればすぐその答えが分かるのにも関わらず)人生のすべてを犠牲にすることに意味はあるでしょうか? (もちろん意味はなくはないですが、まずは自分で考えはじめる前に考えるべきこと (答えはすでにどこかにあるのではないか?等) こそが「本当に考えるべきだったこと」のケースはないでしょうか?)

たとえば石油が湧くことを夢見て、地質学的にそれがありえない場所で地盤を掘り続けることに意味はあるでしょうか? (もちろんこれも意味はなくはないですが、実際に掘ってみる前に、本当に掘れば出るのか? という思考がまずあってしかるべき、というケースはないでしょうか?)

たとえば死にたくなったとして、死ぬべきかどうかを考えるために自殺した人の考察を読むことに意味はあるでしょうか? (それを読んで考えてみる、という選択それ自体が、自分の思考を停止し、自分を自殺の道へと「何も考えずに」導くことそのものではないでしょうか?)

たとえば原子の存在を証明したくて、あれこれ頭の中で考えることに意味はあるでしょうか? (「考える」よりも、たとえば顕微鏡を発明したりすることが重要であって、「考える」ことが実は思考停止で、まだ知らない世界 (工学の世界などの哲学の外側) へと足を一歩踏み出すことこそが「歩みを進め続けること」だったりしないでしょうか?)

たとえば、現実世界での人間関係がうまくいかず、その目の前の問題を解決することから逃げ、その逃避先として哲学の世界を選び、その「高尚」な世界で自己を正当化することは本当に「歩みを進め続けている」といえるでしょうか? (本当は、その目の前の問題こそが、その辺に転がっている哲学的な問いなんかよりも断然、あなたが真に考える価値のある問いではないでしょうか?)

33. 凡夫 さん
[2020/10/11 16:55:18 JST(UTC+09:00)]

哲学の本は入門書をいくつか読んだ程度ですけど、書きたくなったので書きますw

自分なりに「哲学」ってなんなのかを考えたときに、「疑問」と「そもそも」という言葉になりました。
「そもそもそれって正しいの?」「良いとか悪いって何?」みたいな。日常の疑問も「そもそも」を掘り下げていくと大抵過去に哲学で論じられた疑問へ流れ着くと思うんです。となれば、疑問を持ったり、それを深掘りしていく作業が哲学なのかなと。
でも哲学の中に「そもそも」を考えるということが含まれているせいで、物理とか科学と比べると似たようなところをぐるぐるしているように見えてしまうという。

ここで僕の突拍子もない上に無意味で、しょうもないアイデアを提案します。
それは「真理というものが存在するなら、有ると無いが両立してるモノ」ということです。言い換えると「       」でしょうか。
それぞれの哲学者の出した結論って、だいたい正しいように見えるわけです。お互いが相容れないような結論同士でも。
「あるものはあり、ないものはない。」と「万物は流転する」とかね。
そこで僕は考えました。もしかしたら、言葉の上では矛盾する結論同士でも、実はそれぞれ真理の一端を捉えているのでは、と。
そうなれば、真理全体は言葉を超えたものであるわけで、言葉が物事を分ける作用を持っている以上、全ての物が分かれる前のもの。「有る」と「ない」という分け方さえも。「形而上」と「形而下」のどちらにもあって、どちらにもない。
「空」の思想に似ているかもしれません。陰陽太極図で言うと白でも黒でもなく円の縁、もっと言うと後ろの白い背景、みたいな。

で、こんな捉えどころのないものを追い求める哲学って、意味あるのということなんですが、僕が応えるとしたら「沈黙」になるかもしれません。なんだかはぐらかしたようで罪悪感が無いでもないですが、w
求めるところが意味だとかを超えた所にある以上、その視点からは何も言えないからです。それに、沈黙こそがこの場合最良の答えになる気がするのです。上手いこと言えないですが。そも、言葉で表せないものをあれこれ語ることに無理があるかもです。

以上、特に根拠のない戯言でした。ここまで拙い文章を読んでくれたなら、感謝。

34. Fully Hatter さん
[2020/10/11 17:10:48 JST(UTC+09:00)]

> 凡夫 さん
おそらく哲学というものを語る上では重要な視点だと思います。
そして、凡夫さんのその考えはわたしのいうところの「哲学」の「内側」だと思っています。

その「外側」の世界もあるよ、というのがわたしの主張でした。

35. 凡夫 さん
[2020/10/15 20:25:37 JST(UTC+09:00)]

おっと、理解が甘かったみたいです。すみません。
「夢かもしれないこの世界を解明しようとする哲学に、意味はないんじゃない?それなら意味がないかもしれないことを受け入れて、暫定的な仮定の上で進歩できる科学や物理の方がいいよね」っていう論旨であってますか?
それと、「哲学の外側」というのが、いまいちピンとこなくて。いわゆる形而上の世界のことか、哲学以外の学問のことなのか、どちらでもないのか、という。

改めてそういう観点から考えると、やっぱり哲学徒さんやおさる未満さんと同じようなところに行き着きますね…無理矢理新しく考えを出すとしたら
①数学や物理学が生まれる土壌を作ったため、哲学に意味はあった
②言語哲学や科学哲学など、比較的実利に寄った哲学もある(これはFully Hatter さんの定義に照らせば、哲学とは言えないかも)
③この世界が夢だと証明できても、その証明は無駄にならない。なぜなら、夢と分かったならより気持ちのいい夢を見れたり、夢の中を生きるのが楽になるから(笑)

まあ、自分でも屁理屈だと思いますが、なにしろ凡夫ですので、そこは大目に見てください(^^;

36. Fully Hatter さん
[2020/10/16 20:49:24 JST(UTC+09:00)]

> 凡夫 さん
趣旨としては、哲学者なら「哲学」なんて狭い檻の中に閉じこもってないで、「物理学」や「数学」や「芸術」や「宗教」のような、他の世界にも足を運んでみようよ、ですかね。
(哲学に意味があるかどうか、という考え方自体が哲学的な発想で、それ以外にもアプローチの仕方は無限にありますよ、みたいな感じです)

哲学よりも科学の方がいい、とは個人的には思っていなくて、哲学、物理学、数学、芸術、宗教などはそれぞれが独立した世界だと捉えるのがその実態に近いと思っています。
もちろん、哲学の世界観で物理学や宗教を捉えたり、哲学の言葉でそれらを表現することも可能ですが、それをした時点でもはや、物理学や宗教の世界観はそこにはありません。

「哲学の外側」については、たとえば「ゴッホのひまわり」や「三平方の定理」や「ニュートンの運動方程式」や「聖書」などがその例ですね。
「形而上学」はわたしの中では完全なる哲学で、「形而上学」という言葉を持ち出してそれについて考える、というそのアプローチそのものへの疑問が、このページの趣旨となります。

伝わるかどうか分からないですが、たとえばシステムを構築する際に、「Java」というコンピュータ言語で実装する場合と「C++」というコンピュータ言語で実装する場合とで、思考方法が大きく違ったりします。
当然、「Java」で書くときには「Java」の文法に沿ったソースコードを記述しなければならないので、実装中も常に「Java」の考え方で思考し続けることになります。
そして、「C++」で書くときには「C++」の文法に沿ったソースコードを記述しなければならないので、実装中も常に「C++」の考え方で思考し続けることになります。
これはよく考えてみると恐ろしいことで、「考える」という行為自体がその「道具」によって大きく制約を受けている、ということです。
(哲学でいえば「自然言語」という「道具」が大きな制約になっています)

ご存知の通り「自然言語」は極めて強力な道具なので、それについつい頼りたくなる気持ちもよく分かりますが、そこから一歩離れてみて、「論理」や「絵の具」や「実験」や「修行」のような他の道具を試してみる価値もあるのではないでしょうか。

37. 凡夫 さん
[2020/10/17 00:03:29 JST(UTC+09:00)]

なるほど。使う道具に依存してしまうということだったのですね。
哲学の場合は、「なぜ」と繰り返してしまうところや自然言語を用いるところが良いところであり同時に欠点、限界である。(どんどん無意味な領域に近づいてしまったり、言葉の限界を変えられなかったりするから)
その欠点を克服するには、哲学の外に出るしかない、そういうイメージでしょうか。

確かに哲学の外に出ることでこの限界を超えられるように思えます。
しかし一方で、「哲学、物理学、数学、芸術、宗教などはそれぞれが独立した世界だと捉えるのがその実態に近いと思っています。」という言葉には賛同しかねる部分があります。
例えば7世紀のインドでは負の数が発明(発見?)されていましたが、ヨーロッパでそれが認められるのは17世紀ほどまでかかりました。なぜなら、ゼロや無理数とともに、「万能の神が作ったこの世界に存在しない数なんてあってはならない」という考え方が邪魔したからです。宗教が数学に干渉していたわけです。ヨーロッパでマイナスが受け入れられるようになったのは、「負の数など存在しない」という考えに「本当だろうか?」という哲学的なアプローチがなければあり得なかったはずです。ちなみに、負の数が受け入れられるようになったのは、お馴染みのx軸とy軸のグラフが発明されて、マイナスが可視化されたためです。このグラフを作ったのが、かの有名なデカルトです。
彼はもともと数学者で、数学的なアプローチを哲学に持ってこようとした人です。
キリスト教も教義の理論化の際にプラトンやアリストテレスの考え方が用いられています。
西洋絵画の世界も宗教画を抜きに考えられないし、またその表現方法も宗教的背景を多分に受けたものとなっています。

それぞれの学問には確かにそれなりの独立性があるものの、決して他の領域から完全に独立しているとは言えないと思います。特に学問の世界において、ある程度常識とされていることを疑うこと(哲学の欠点)は進歩のためには不可欠でしょう。
Fully Hatterさんも上の方でおっしゃってましたが、自分には、哲学も物理学も宗教も数学も芸術も、それぞれが連関していて、実は切り離せないものに思えてしまうのです。

一応哲学の欠点は他の道具でなんとかなるけど、それでも哲学の影響は残ってしまい、完全に哲学を克服することは出来ないのかもしれません。
あくまで道具として捉えるならば、それで十分ですが。

38. Fully Hatter さん
[2020/10/17 09:45:33 JST(UTC+09:00)]

> 凡夫 さん
ご丁寧に補足ありがとうございます!
まさにご指摘の通りだと思います。

ただ、ご認識の通り、それぞれが関連しているからといって、哲学ではその他すべてを包括できないし、同時に、科学によってもその他すべてを証明することはできないと思います。

もちろん関連はありながら、「独立」とも表現しうるそれぞれの世界観があり、その中に入ってみなければ決して認識できない「何か」がそこにはある気がしています。

39. のえまりこ さん
[2020/12/05 02:37:43 JST(UTC+09:00)]

とても興味深い記事でした。この記事を読んでいろいろと考えたい方向性が見えたのですが、現段階での私の考えを記したいと思います。

大学機関で哲学専攻でした(不良でしたが…笑)。研究室でもよく「哲学に意味はあるのか」という議論がされていた印象です。そこで問題になったのが「意味がある、とは何か」です。ある人は「社会の役に立っているもの」と答えました。すると「社会の役に立つとは何か」と聞かれ、「実際に社会で活用されているもの。例えば、事務で使うエクセルなんかは数学が用いられているけど、哲学研で研究することが社会で活用されている事例は思いつかない。強いて言えば医療倫理の分野くらい」と答えていました。(※「医療倫理」というのは、例えば、デザイナーベイビーの問題性を哲学的知見から考える、とかです。既にご存知でしたらすみません。)次に進んだのは「では、社会活用されないものは無意味であるのか」という問いです。例えば、働けない人は生きていることが無意味なのか(これは生の問題にもなるので少しズレますが)、など。その後も延々と続いていた気がしますが、あまり覚えておりません。
では、上のやりとりで何が起きていたかというと、問いに答えると、その答えがまた問いを呼ぶという現象、言うなら、「問いの循環」が起きているのではないかと思います。「なぜ」を繰り返すというものです。なぜ循環してしまうかというと、基盤(出発点とも言えるでしょうか)を設定できていない(もしくは、していない、あえてしない)からです。例えば数学なら自然数の発見が基盤となり、それを土台に様々な数学の分野が築かれていった。そのようなことが、本来的な(ソクラテス的な)哲学ではできません。

「本来的な哲学」と記したのには意味があります。おそらくソクラテス以降の哲学者は、まず問いを立てた後、考え尽くして根源的な問いを取り出し、それをとりあえずの仮定(テーマ)とします。(もちろん、初めの問いも根源的な問いも哲学者それぞれで、根源的な問いに妥当性があるのかというのは分かりません。根源的な問いも、あくまで、その哲学者にとっての問える限りを尽くして出したものです。)そして、それを基盤として、その上に様々な考察をして、そのつど出てきた答えを乗せていきます。そしてそれを一つの思想・学としているのが現状だと思います(例えば、「実存主義」「現象学」など)。

以上から、哲学は大きく、ソクラテスが行っていた「なぜ」を延々と繰り返す『循環型哲学(本来的な哲学)』と、その他大多数の哲学者が行った、問い→基盤(出発点)を設定→それについて考察→答え(答えが導けなかった場合は「答えが導けなかったが、ここまでは理論として組み上げられた」という答えもあると思います)という道を辿る『積み上げ型哲学』の、二種類があるのかなと思います。
本来的な哲学では、真実がない(設定をしていない)ので、当たり前ですが、答えには辿り着けません。しかし、積み上げ型哲学においては、各哲学者の根源的な問いがとりあえずの「真実」とされます。その点では、他の科学(特に数学でしょうか)と似ていると言えると思います。

40. のえまりこ さん
[2020/12/05 02:38:19 JST(UTC+09:00)]

ここで、ついでですが、各学問の「真実」はなぜ真実と言えるのでしょうか。その真実であるところの理由は不問に付されたまま、各学問は成立しています。なぜなら、その不問部分は哲学(特に本来的哲学)の領域だからです。例えば、数学のとある真実である「これを1とする」。これは既に仮定されたもの(数学における真実?といえるか怪しいところですが、一応真実としておきます)であり、「1とは何か」は問われません。それを考えるのは哲学の仕事ですね。
ということは、関係図としては、各学問は哲学を土台としてその上に位置している、と言えるかもしれません。(学問のほとんどは、哲学から派生して独立していったことからも、この関係図は合っていると思います。)
となると、各学問が出発点としているところの真実も揺らぐのではないでしょうか。なぜなら、土台が真実なき哲学であるからです。各学問の真実は本当に真実なのでしょうか。とても気になるところなので、考えてみたいです。

「哲学は無意味か」からだいぶん話は逸れてしまいましたが、とりあえず、今回書けるところまで書いてみました。

以降、感想です。(ですので以降は「意味とは何か」という細かい部分にはあえて触れません。)
私自身は、哲学には意味があると思っていますが、それを論証はできておりませんので、現段階で私が言えるのは「哲学は、その有意義さを実感した人にとっては意味がある」と記したいです。
私も、哲学の有意義さを実感した人の一人ですが、まず、循環型哲学のような「なぜ」を繰り返すというのは、途中で行き詰まってしまっても、とりあえずの答えは出せますよね。例えばですが、「私は孤独だ」と悩んでいた時、「孤独とは何か」と考えると「人と関わりを持てていないこと」という答えが出た。それから「人との関わりとは何か?」という新たな問いが出てきて、「人との関わりとは、社会的なもの全般ではないか」と行き着く。今まで友達がいないから孤独だと思っていたけれど、実際には、役所の窓口でのやり取り、たまに会う家族との会話、たまたま会った隣人との挨拶のも人との関わり、という答えになり、私は孤独ではないのでは、と結論が出た、など。(但し、本人が何かしらの精神的理由で孤独感を抱えているのなら、それはまた別問題なのですが。)こういったように、少なくとも私には、「なぜ」の繰り返しで見えてくる答えがあったりします。
あと、循環型哲学は、純粋に論文や専門書を読む時に役に立っています。私は以前は文章をきちんと読まない不良でしたが、哲学を専攻したことで「ここに書かれている××の定義って何だ」と突き詰めて考えるようになり、文章の論理や主張がおかしいなど気付ける機会が多くなり、便利だなと思っています(笑)あと、その論文や専門書が踏み込めきれていないところにも気付けて、さらなる問いを発見することができるのも得と言えるかもしれません。
そして、積み上げ型哲学の方も私にとっては意味があるものでした。私は、とある認識論を主に学んでいましたが、自分がどのように認識をしているか、そして何が認識の基盤となるのか、など考えたことがなかったので、その哲学者の理論を知って驚きました。だから、こちらは、未知のことを知れた感動に意味があったと思っています。

ちなみに、この記事で問われている哲学というのは、「なぜ」を繰り返す本来的な哲学の方かと思われます。「なぜ」の繰り返しに意味があるのか、実証できるか、私も考えていきたいです。興味深い記事をありがとうございました。

41. のえまりこ さん
[2020/12/05 09:54:17 JST(UTC+09:00)]

追記:起床後にも考えていたのですが、Fully Hatter様はおそらく循環型哲学だけでなく、積み上げ型哲学の方も意味があるのか、と書いてあるような気がしました。というのも、積み上げ型哲学の「根底的な問い」というのは他の学問同様出発点になり得るか、も問題とされているのかな、と。追記というか、修正でした。長文になり、失礼いたしました。

42. Fully Hatter さん
[2020/12/05 12:00:52 JST(UTC+09:00)]

> のえまりこ さん
コメントありがとうございます! (いただいたコメントのわたしの仮称のスペルが間違っていたので勝手に修正しちゃいました)
実はこのページは引っ掛け問題(笑) でして、哲学的なアプローチだと理解不可能な文章なんですよね。
のえまりこさんのコメントを引用させていただきながら、ちょっとわたしの意図を説明してみます。

『各学問は哲学を土台としてその上に位置している、と言えるかもしれません』

これは哲学の「宣伝」のためによく使われるフレーズですが、わたしはこれは明らかな誤りだと思っています。
哲学ではその論考を主に自然言語を用いて行いますが、たとえば「三平方の定理」や「相対性理論」をその自然言語的手法で証明(発見)することはできません。(答えが分かっていたとしてもそこに近づくことすらできません)
もし哲学が数学や物理学の土台として機能しうるのであれば、その哲学的なアプローチによって数学や物理学の知見の後追いが一切不可能であるのはとても変なことです。
哲学、数学、物理学はそれぞれが完全に独立した世界であって、ひとりひとりの見えている世界が違うように、哲学や数学、物理学から見える世界もまったく異なる景色である、という方がより真理に近いと考えています。

< 「自由意志」のページの Fully Hatter のコメント引用 >
この世界を理解する上で、たとえばピタゴラスの三平方の定理に代表される「なぜか世界が数学的に記述できること」や、アインシュタインの特殊相対性理論による「光の速度は絶対であること」や「この世には電磁気、弱い力、強い力、重力の 4つの力が存在すること」などは極めて重要な知見ですが、自然言語に基づく方法論では (たとえ答えが分かっていたとしても) そこにたどり着けないことには注意すべきだと思います。

< 数学の世界観について >
数学は「仮定」から出発しますが、その「仮定」自体の根拠は明らかに哲学ではありません。
たとえば「三平方の定理」は「ユークリッド空間」という仮定から導かれる帰結ですが、実はこの「ユークリッド空間」は「この世のどこにも存在しない世界」です。
これは、数学の「仮定」が現実世界の制約を受けていないことを意味しますが、それは、どんな「仮定」を置いてもよい、ということを意味しません。
「仮定」が「仮定」として成立するためには、それによって生まれる世界(論理構造) が「美しい」必要があります。
よって、数学の拠り所とは、突き詰めていくと人間の「美的感性」なのだともいえると思います。
(繰り返しになりますが、この拠り所(美的感性) を「哲学 (自然言語的にアプローチ)」することもできません。なぜならば自然言語では「ユークリッド空間」すらも表現できないからです。その世界を一切記述できない「道具」をいくら頑張って使ったとしても、もちろんその世界に関することは一切記述できません)



『哲学は、その有意義さを実感した人にとっては意味がある』

これについてはまさにその通りだと思います。

43. のえまりこ さん
[2020/12/05 14:38:34 JST(UTC+09:00)]

丁寧なご回答、ご説明ありがとうございました。まず、Fully Hatter様の表記ミス、大変失礼いたしました。気付いたのですが編集不可でしたので、修正いただき恐縮です。

この問いは、そもそもは哲学的なアプローチでは考察不可ということだったのですね(笑)確かに、それもそのはずですよね。哲学に意味があるかを哲学をベースに考えるというのは、それこそが循環であって、答えに辿り着けるはずがないですよね。考えが至らず、お恥ずかしい限りです。そして、ご教授いただきまして、勉強になりました。

ちなみに、前回のコメントでは認識論を主に学んでいたと曖昧に書かせていただいたのですが、厳密にはフッサールという現象学者を学んでいました。
『各学問は哲学を土台としてその上に位置している、と言えるかもしれません』
これは、フッサールが学問の関係というものをこのように考えていたため、それに依拠して導き出してしまった答えでした。自分なりに考えようとしても、研究していた哲学者の理論の影響というのは凄く、いつの間にか飲み込まれていたみたいです(笑)
Fully Hatter様の『哲学ではその論考を主に自然言語を用いて行います』という箇所に異論はありません。

頭が混乱してしまい支離滅裂な文章になってしまうかもしれませんが、多少フッサールの考えについて紹介させてください。
フッサールは数学専攻だったのですが、数学がそもそも学問として基礎付けられているかということに興味を持ち、哲学に転学し、数学という学問の基礎付けを試みます(「何をもって1なのか」、「私(1)+鉛筆(1)=2と言えるのか」などですね)。そこで色々な道を辿るのですが、行き着いたのは、私たちの認識の正当性はどこにあるのか、というところだったと思います(だいぶん飛ばしました、すみません)。これはデカルトの出発点と同じです。しかし、フッサールとデカルトの異なる点は、デカルトが目に見える全ての事象までをも夢ではないかと懐疑してコギトのみを残したのに対して、フッサールはデカルト的な懐疑を行いつつも、自分の目の前に広がる景色は主観的に知覚できているではないか、とりあえず事象が客観的に存在しているか(=認識の正当性)は脇に置いておき(これを「エポケー」と言います)、主観的に知覚しているということは残しておこうとして、そこを出発点とします(ここは、私の力量では、文章の説明がかなり難しいところです…。エルンスト・マッハという物理学者がいますが、もしかすると「マッハ的光景」などと検索すればその絵が出てくるかもしれません)。フッサールは、認識の正当性を証明することで、諸学問を基礎付けようとしました。例えばですが、物理学で何かの法則に関する実験をする際、認識の正当性を証明できていないのに、そもそもその実験を私たちが認識できているのか、ということですね(これは暴論なのですが、大胆に言えばそうなります)。
と、フッサールの問題意識はそういったものでした(あくまで私の理解なので、ガチ研究者には間違ってると見られるかもしれません)。

44. のえまりこ さん
[2020/12/05 14:41:53 JST(UTC+09:00)]

Fully Hatter様は「学問の土台に自然言語を持ってくるのは問題」という主張のようですが、哲学は自然言語を用いつつも、とても言語化し得ない部分を扱っているため(そのため哲学者ならではの専門用語もあります)、自然言語を用いるという理由だけで学問を基礎付けられないということは排斥できないのでは、と思った次第です。特にフッサールの場合は自然言語を用いてでも、認識の正当性を証明する必要がある、なぜなら認識は全ての始まりであるから、といった感じです。※但し、フッサールも学問というのを細かく区分けしていまして、数学に関しては他の学問と事情が異なると述べていました。記憶が曖昧ですがイデア的なものでしょうか。
但し、「自然言語を用いるのでは学問を基礎付けられないのか、可能性もあるのではないか」ということについては、私の感想と希望であり、もちろん正解だとは思っておりません。そしてこれは、非常に興味深い議論だと思います。

フッサールによる学問の区分けについては『イデーンⅠ-Ⅰ』、哲学が諸学問を基礎付ける意義などは『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』が参考になりますが、今回のこの記事を通して私自身たくさん考えたいことができたので、私の方がまたこの書を熟読したいなと思いました(笑)

加えて、また感想となりますが、数学の世界観のお話で、『「仮定」が「仮定」として成立するためには、それによって生まれる世界(論理構造) が「美しい」必要があります』と述べられておりましたが、フッサールは元数学専攻ということもあり、私自身は彼の出発点と論理構造には「美的感性」を感じています(きっと私がフッサールを贔屓目で見ているのでしょう…笑)。大変有意義な問題提起やご説明をありがとうございました。とても楽しかったです。

45. Fully Hatter さん
[2020/12/06 15:26:30 JST(UTC+09:00)]

> のえまりこ さん
『自然言語を用いるという理由だけで学問を基礎付けられないということは排斥できないのでは』

(自然言語では不可能と断言しておいてアレですが) おっしゃる通り、これはまさにその通りだと思います。
そもそもこのページの本文もコメントも自然言語を用いて記述しているので、「いやいや自然言語が無意味だって自然言語で言っても意味ないじゃん!」というツッコミ待ちでした(笑)

『フッサールによる学問の区分けについては『イデーンⅠ-Ⅰ』、哲学が諸学問を基礎付ける意義などは『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』が参考になりますが、今回のこの記事を通して私自身たくさん考えたいことができたので、私の方がまたこの書を熟読したいなと思いました(笑)』

哲学が無意味であることを示したはずのこのページによって哲学への関心が高まり、そこに逆に意味が生まれるという。この世界はおもしろいですね。

46. 魔王プートン さん
[2021/09/13 22:11:40 JST(UTC+09:00)]

パスカル、パンセより「真の哲学とは哲学を馬鹿にすること」ですかね。

47. 魔王プートン さん
[2021/09/13 22:41:16 JST(UTC+09:00)]

パンセで、良い眼を持つことが大切ってあります。幾何学だったらいったん理解してしまえばどこまでも見通せる。幾何学においては。それとは違って人付き合い、人生のことは色々と経験してみないと本当のこと理解出ないと。
頭で観念的に考えることと実際に試行錯誤してやってみることの違いでしょうか?

若い頃に取り組んでいたものは歳をとってからも支えになってくれます。芸は身を助け、でしょうか。私は音楽少しやりますけど、本当の音楽家になるなら14歳になる前からやってないとうまく出来ません。
50歳になってからスポーツでオリンピックで金メダルとろうとしてもまず無理であることは誰にでもわかるかと思います。

ノーベル賞取る人っていうのは40歳になる前から取り組んでいた人なんですよね。物理学賞だの医学賞だのの場合。だけど40超えてからはじめた人でも文学賞や平和賞は取ること出来ます。

人生経験を積んでから哲学書読むと深い意味を感じられるんですよね。役に立たないけど、役に立つ。そんなものではないでしょうか?

48. Fully Hatter さん
[2021/09/17 14:49:50 JST(UTC+09:00)]

> 魔王プートンさん
『パスカル、パンセより「真の哲学とは哲学を馬鹿にすること」ですかね。』
パスカルさんの意図とは違うかもしれませんが、「馬鹿にすること」を「批判すること」と捉えればまさにその通りかもしれませんね。

『パンセで、良い眼を持つことが大切ってあります。幾何学だったらいったん理解してしまえばどこまでも見通せる。幾何学においては。それとは違って人付き合い、人生のことは色々と経験してみないと本当のこと理解出ないと。』
体験してみないと本当に理解できないのか? これは、わたしが小学生の頃から挑み続けている問いです。わたしは、体験しなくとも理解は可能なのではないか、という仮説を持っています。わたしは体調があまり安定しないので、もし体験がすべてなら、体力があって毎日いろんなことに大量にチャレンジできる人にわたしは到底勝てません。ですが、100の体験よりも、狙い澄ましたたった 1つの体験が勝る可能性があるとしたら、そこにわたしの勝機があります。まあ、誰と戦ってんだよ、という話ですが(笑)

49. 魔王プートン さん
[2021/09/17 17:45:56 JST(UTC+09:00)]

ご回答いただきありがとう御座います。

経験は量より質かもしれないですね。自分で納得がいくかなのかな。共感することなども大切でしょうか。

も少しバンセで言わせていただくと、「人間は考える葦である」って有名な一文哲学でとても重要なことだと思うんですよ。人は宇宙のなかでちっぽけな存在である、しかし自分は宇宙のなかでちっぽけ存在だということを知っている、だから違うんだすごいんだと。

人が生きていく人生での哲学の意味が凝縮されてるように思うんです。

50. Fully Hatter さん
[2021/09/17 18:37:33 JST(UTC+09:00)]

> 魔王プートンさん
人がちっぽけな存在なのはその通りですが、ちっぽけなりに、その 1 のちっぽけさから 10 のちっぽけさに歩みを進めることが大事だと思います。

宇宙の 100億のスケールからみると 1 も 10 も微小ですが、そこからさらに 100 や 1000 へと成長することに価値がある気がします。

ひとりひとりで体験できる領域にはどうしても限界があるので、100億の真理に少しでも近づくためには、体験を超えた圧縮装置が必要でしょう。

現代で言えば、それは数学や物理学などの自然科学やコンピュータ・サイエンス、脳科学の知見などがそれに相当すると思われます。

51. ネコ さん
[2023/12/06 13:39:14 JST(UTC+09:00)]

Fully Hatter様の最初のお話である
『私やあなたが生きているこの世界は、実はすべて夢の中の出来事でした。ですので、あなたの目が覚めたらこの世界はなくなってしまいます。あなたのお友達も、この地球も、目が覚めたらすべてなくなります。そのときにあなたは、自分が本当は、夢の中の世界とは全く違う本物の世界の住人であることに気づくでしょう。その本物の世界にはもちろん、あなたのお友達もこの地球も存在しません。それどころか、人類も重力も、論理的な思考すら存在しません』

……確かに嘘とは言い切れませんが、やはりこの手の思想に対する不安感や恐怖感を拭うことができません。

どうすれば良いのでしょうか?

52. ネコ さん
[2023/12/07 08:33:58 JST(UTC+09:00)]

水槽の中の脳や、世界が夢で現実には何も存在しない、という事を知ってから、どうしようもない無力感や絶望感が押し寄せ、希望を持てない日々が続いています……。

53. Fully Hatter さん
[2023/12/07 21:26:04 JST(UTC+09:00)]

> ネコ さん
最近流行りのアドラー心理学流で回答してみます。
※以下少し刺激強めの文章が続きますので、体調の良いときに閲覧ください m(_ _)m

まず、ネコさんに無力感があるのは、この世界が幻想かもしれないから「ではありません」。

ネコさんは、この世界が夢であることを証明した訳ではありませんし、水槽の中にぷかぷか浮いた脳が本体だという証拠を見つけたわけでもありません。
ですので、現段階ではこの世界が夢なのかどうかは分からない、というのが実際のところです。

もしネコさんのいう通り、この世界が幻想かもしれないと知ると無力感が押し寄せるのであれば、世界中の受験生は受験勉強なんてしないはずです。
なぜならば、ネコさんの論理をそのまま受験生に適用すれば、どんなに頭のよい子でも受験に失敗する可能性は必ずあるので、受験勉強に際して全受験生には無力感が押し寄せるはずだからです。

同様に、世界中のサッカー少年もサッカーの練習なんてしていないはずです。
どんなに才能のあるサッカー少年でも、プロのサッカー選手になれない可能性は必ずあるので、無力感が押し寄せるはずだからです。

何が言いたいかというと、要するに、この世界が幻想かどうかとネコさんに無力感が押し寄せていることはまったくの無関係です。
確実ではないことが不安や絶望感につながるのであれば、全人類が不安や絶望感に包まれていなければ辻褄が合わないからです。(この世に確実なことは何一つとして存在しません)

では、なぜ世界中の受験生やサッカー少年には無力感が押し寄せないのに、ネコさんにだけは無力感が押し寄せてくるのか。

それは、ネコさんにとっては無力感が押し寄せてくれた方が現実的に非常に都合がよいからです。
もし、何もかも世界が幻想かもしれない不安のせいにできれば、やりたくない今日の勉強や仕事をサボることもできますし、衝動買いやギャンブル、パチンコなどの短期的な快楽に身を委ねる口実にもできます。

ちなみに、誤解を招きそうなので 1つ注意していただきたいのが、ネコさんのその無力感は「良い」ものである可能性も十分に考えられます。

たとえば、頑張り屋さんで無理をしがちな人であれば、ついついキャパシティを超えて自分の心身を酷使しがちなため、そういった人には「無力感」は「最高の休養」になりえます。

過去に大きなトラウマがあり、その傷がいえていない人であれば、その大事な心を守るために「無力感」は「最強の防御」となりえます。

毎日やりたくないことをやらなければならない人であれば、「無力感」は現状を変える「最良のきっかけ」になりえます。

まずは、ご自身の無力感ときちんと向き合ってみてはいかがでしょうか?

どなたでもご自由に書き込んでください。
Fully Hatter が愛をもってご返事いたします。


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