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「性教育」はするべきなのか?

〜「性教育」を盲信するあなたへ〜

大人は子どもに「性教育」をするべきでしょうか?

最近では『子どもに「性教育」をするべき』と考える人が増えているようで、タレントの SHELLY さんも 性教育に関する動画 (「性教育チャンネル始めました!”なんでお風呂場なのか”─の回」) を YouTube にあげていたりします。

世間一般的には、このような動きは好ましいもののように考えられているようです。
こういった教育を重要視する文化 (西洋) が優れており、この領域をタブー視してきた日本は遅れている、といった価値観ですね。

誤解を恐れずにいえば、わたしは、大人は子どもに「性教育」をすべき ではない と考えています。

このページでは、わたしが上記の考えに至った経緯と、代わりに我々がすべきことをご提示します。

そもそも「性教育」とは何か?

性教育の全体像は非常に幅広いですが、大きく分けると以下のように分類できます。

  • 性について (男女の体のつくり、性の多様性、LGBTQ)
  • 性行為について (愛、方法論、性同意)
  • 性行為に伴うリスクや危険性について (性病や若者の妊娠、避妊)
  • 性にまつわる法律の知識について (性暴力、DV)

なぜ我々は「性教育」をしてはならないか

理由は簡単です。

なぜならば、我々は「性教育」ができるほど、我々自身が性についてまったく何も理解していないからです。

もっと言ってしまえば、正しい「性教育」ができる人間などこの世には存在しません。

その現実において、重要なことは以下ではないでしょうか。

Fully Hatter の主張

  1. 「大人も性について何も分かっていない」という大前提をまずは子どもと共有すること
  2. 自分たちの社会のルールを (あくまでルールとして) 伝えること
  3. そして何よりも、知りたいことを調べる方法を教えること

性教育に限らず、 我々が誰かに何かを教える方法はこれ以外にありません。

あなたが「性」を理解していない理由

たとえば

  • 性行為は素晴らしいものである
  • 子どもを産むことは素晴らしいことである
  • 避妊の知識をきちんと身につけよう
  • 女性を襲ってはいけない

これらを当たり前のことだと思いますか?
あなたは、これらの中に隠れている危険性にちゃんと気づいていますか?

上記をすべてひっくり返してみましょう。

  • 性行為ができない人にも価値がある
  • 子どもを産めない人にも価値がある (むしろ、子どもはあまり産まない方がよい)
  • 避妊はしてはならない
  • 女性は襲ってもよい

これらの言葉に嫌悪感を抱く人もいるかもしれませんが、あなたがどう思うかはともかく、このひっくり返した言葉の方が「正しい」とされる文化や民族が多数存在する (していた) ことは認識するべきでしょう。

もしあなたが、これらのひっくり返した言葉が「間違っている」と思うのならば、その「間違っている」文化や民族から見れば、あなたのその考え方こそが「間違っている」価値観です。
つまり、あなたが「正しい」と思っている「性」は、一つ残らず間違っている可能性があるのです。

何となく、わたしが言おうとしていることが見えてきましたか?

わたしがお伝えしたいことは基本的には上記がすべてですが、読者の皆さまの理解のために、以下に具体的な Q&A をまとめてみます。

Q&A

Question 1: 「性教育」には価値があると思うけど?

それでは、あなたは

  • たとえばゲイやレズの方に対して、彼らが抱きがちな疎外感との付き合い方や、自分の性的指向をどこまで打ち明けるべきかなど、性的少数の方のあるあるの悩みに答えられますか?
  • たとえば、体は男性で性的指向が女性であっても、服装やふるまいや言葉遣いは女性っぽくありたい、というような人がいることを認識していますか? そして、そのような「普通でない」人たちの方が実は圧倒的多数派であることをきちんと認識していますか?
  • まさか、自分自身の経験をもとに「教育」をしようとはしていませんか?
  • 「性」とは、ひとりひとりがあまりに多様であり、すべての人間が性的少数であることをきちんと認識していますか?

「性」について知るべきことというのは、実は、ひとりひとりでまったく異なります。
その現実において、その子が知るべきことというのは、本来は誰かが与えてくれるようなものではありません。
教えるべきは「答え」よりむしろ、その「答え」に辿り着く方法ではないでしょうか。(詳細は『Question 6: 結局、親は何を教えればいいの?』をご参照)

Question 2: 「子どもを産むことは素晴らしい」と教えてはいけないのか?

ここではあえて、「教えてはいけない」と回答したいと思います。

たとえば、あなたがその子を勝手に異性愛者だと思い込んでいる (場合によってはその子自身もそう思い込んでいる) だけで本当は同性愛者だったり、たとえばその子が ED や不妊症で子どもが作れない体だったりした場合でも、あなたは本当に「子どもを産むことは素晴らしい」と教えますか?

たとえば、子どもが作れない人に価値はないと思いますか?

たとえば、西暦1,800年まで (数十万年かけて) 緩やかに増加してきた世界人口が、このたった 200年の間で7.5倍 (西暦1800年の世界人口は約10億人で、西暦2020年の世界人口は約75億人) になっていますが、本当にもっと人間を増やすべきだと思いますか?

Question 3: 「避妊の知識」も教えてはいけないのか?

これをお読みの方も十分ご存知のように、日本社会においては、たとえば中学生や高校生くらいの年齢で子どもを作ることにはかなりのリスクがあります。
統計的にも明らかな経済的ダメージがあり、中高生に避妊を強要することには一定の成果が見込まれるでしょう。

ただし、これは 教育ではありません。

「教育」とは、たとえば避妊についての俯瞰的な情報を提供することです。
その「教育」の中にはもちろん、避妊がタブー視される文化の価値観や、避妊そのものの是非 (生命に関することを人間ごときがコントロールしてよいのか? 等) についての議論も当然盛り込まれるべきであり、「教育」とは、たとえば「避妊をすべきかどうか」の結論をより曖昧にするものだからです。

よって、わたしは「教育」ではなく「洗脳」をすべきと考えます。

わたしの主張をもう一度繰り返します。

Fully Hatter の主張

  1. 「大人も性について何も分かっていない」という大前提をまずは子どもと共有すること
  2. 自分たちの社会のルールを (あくまでルールとして) 伝えること
  3. そして何よりも、知りたいことを調べる方法を教えること

「洗脳」というちょっと強い言葉を使いましたが、これは上記の 2つ目の『自分たちの社会のルールを (あくまでルールとして) 伝えること』を意味します。

「避妊」の是非についての議論があることを大前提としながら、日本の社会では「避妊」はした方がいいよ、というアドバイスが大切だと考えます。

わたしの結論 (中高生にはとりあえず避妊させる) は「性教育をすべき」派の人たちとほとんど同じですが、彼らとわたしの唯一の違いは、それを「教育」と捉えるか「洗脳」と捉えるかの違いでしょう。

まとめると、避妊を勧めることは「性教育」ではなく「性洗脳」であり、それは悪いことではなくむしろ、日本社会における一つの最適解である、というのがわたしの主張です。

Question 4: たとえば女の子に「プライベートゾーン (水着で隠れる部分等) は他人に触らせてはいけない」と教えることは大切では?

その通りだと思います。

でも、それも『Question 3: 「避妊の知識」も教えてはいけないのか?』と同じように「教育」ではないと思っています。

Question 5: 女性を襲うことは許されないのでは?

言うまでもなく、現代社会においては個人の権利を侵害するようなあらゆる行為は正当化されません。

しかし、ここにも大きな危険性があります。

「女性を襲うこと」は社会的に明らかな NG ですが、だからといって「女性を襲いたい」という欲望を否定することは、また新たな、そして非常に大きな問題を引き起こします。

またまた誤解を恐れずに言えば、わたしは あらゆる欲望は無視してはならない と思っています。
社会において「望ましくない」とされるどんな欲望も、それを抑圧することは避けなければなりません。

もちろんこれは、人を殺したり女性を襲うことを推奨している訳ではありません。
そうではなく、その欲望を直視し、それを合法的に解消する方法を考えるべきです。

たとえば、どうしても人を殺したい人がいたとして、その人にとって重要なのは「人を殺したい」という欲求を無視することではなく、その欲求に向き合い、たとえばゲームなどでその欲求を満たしたり、体を動かすことでその欲求を間接的に解消したり、もしくは軍隊に志望したりなど、その欲求と (合法的かつ倫理的に) 付き合う方法を考えることこそが重要なはずです。

同様に、女性をどうしても襲いたい人がいたとして、その人にとって重要なのは「女性を襲うことはいけないことだ」としてその自分の欲求を否定することではなく、その欲求を自分のものとしてまずは受け入れ、それを直視し、たとえばパートナーにその欲求を打ち明けてそのようなシチュエーションを (合意のもとに) 作ってみる、というような具体的な対策案を考えることこそが重要ではないでしょうか。

一般的な「性教育」によって「女性を襲うことは悪いことだ」というメッセージを安易に伝えることは、(その伝え方によっては) より深刻な犯罪を生み出してしまう結果にもなり得るのです。

Question 6: 結局、親は何を教えればいいの?

もう一度、わたしの主張をまとめます。

Fully Hatter の主張

  1. 「大人も性について何も分かっていない」という大前提をまずは子どもと共有すること
  2. 自分たちの社会のルールを (あくまでルールとして) 伝えること
  3. そして何よりも、知りたいことを調べる方法を教えること

繰り返しますが、まず最初に我々は「何も分かっていない」ということを認識すべきです。
「性教育」によってその子の未来を拓くどころか、逆にその子にとって有害な影響を与える可能性があることを十分に知っておきましょう。

そして、その大前提のもとに『知りたいことを調べる方法』を教えてあげましょう。

難しいことはありません。

あなたがどのようにその「性」についての知識を手に入れたのか、そのあなた自身の情報の仕入れ方をそのまま子どもに教えてあげればよいのです。

たとえばそれは、近くの図書館や古本屋さんで本を探す方法だったり、Google検索の方法だったり、もしかしたら身近な大人と話すことだったりするかもしれません。

もちろん、その調べる前準備として「性」についての「目次」を子どもに教えてあげることは大切ですが、重要なのは知識それ自体よりもむしろ、その知識にたどり着くための方法ではないでしょうか。

その子が性について何を学べばよいかは、親や教師のような大人たちよりも、その子自身の方がはるかによく分かっているのですから。


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キング牧師
最大の悲劇は、悪人の圧制や残酷さではなく、善人の沈黙である。

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Comments

1. バード さん
[2021/02/05 10:45:10 JST(UTC+09:00)]

カール・マルクスのフォイエルバッハに関する11のテーゼの中に、環境と教育に対する唯物論的な議論のためには教育者が教育されなければならないとあります。性とは何かということに、そもそも答えを出すのは容易なことではないし、答えを出してそれを教えるのは価値観を押し付けることにもなります。
性教育だけではなく、あらゆる学問も正解というものが無いのにそれをさも「これが正解だ」と教え込むことにうすら寒さを感じます。
学校教育においても、教師になるために大学でずっと学んで社会に出たこともないような学生あがりが子ども達に伝える価値観などとても薄っぺらいものでしょう。
そのためには教師自身に、性教育だけに留まらない様々な学習、研鑽をするための時間も必要と思われますが今の教育現場の過密労働の中では、教育者自身が教育される、教育者自身がより良い教育をしていくための力を付ける時間すら奪われています。
今回は性教育からの切り口でしたが、いろんな方面に思考を発展させることができますね。

2. Fully Hatter さん
[2021/02/05 20:17:09 JST(UTC+09:00)]

> バードさん
いつもコメントありがとうございます!

わたしは両親が教師ということもあり、小さい頃から「教育」について深い思い入れがあるのですが、個人的には、教育者は優秀であったり人格者である必要はないと思っています。

教育者に多くを求めると、子どもに教える人が誰もいなくなってしまうので。
(もちろん、あまりに不適合な人ばかりになってしまうとまずいので、そこそこのフィルターで教育者を選別する必要はあると思いますが)

個人的には、反面教師もまさにそうですが、戦争や犯罪、不幸などの「よくない」とされるものの中に存在する確かな価値に興味を惹かれます。

たとえば、偉大な発明の多くが戦争によって生み出されていることや、悲惨な境遇が素晴らしい文学を生み出すことなど。

教育者はこうあるべき、であったり、理想や正解だと我々が思っている外側こそに、何かがある気がしてなりません。

3. バード さん
[2021/02/06 12:25:55 JST(UTC+09:00)]

今回は性教育ということで学校教育を引き合いに出しましたが、考えてみれば性教育も含めてあらゆる教育を学校だけに任せていいことでもないでしょう。それこそ地域単位で学校も保護者も自治体も含めて子どもの生育について責任持たないといけませんね。子どもへの教育を学校だけに押し付けるのは、無責任でもあるような気がします。

ただ戦争が技術や文化を発展させるために必要悪だったから、反面教師も必要なのだという論調には少し首をかしげたくなります。
様々な論点を一緒にすると本質が見えにくくなりますよね。

「技術を発展させるために戦争は避けられなかったのか?」

戦争を肯定的に捉える人の中に、技術を向上させたのだから戦争は必要だったとする人がいます。
では、戦争があった時代と戦後の平和な時代で技術力が延びたのはどちらでしょう?
戦争に勝つために技術力が延びたのならば、平和な時代では技術力は延びないのでしょうか?
それは人間の持つ知的好奇心、知的探求心を過小評価しているのではないですか?

「戦争が本当に技術を発展させるのか?」

あらゆる物資が戦争に使われ、多くの才能や可能性を持つ若者が戦地で散っていたことを考えると、戦争が技術発展のために本当にプラスに働いたとは少し考えにくいのです。
国家は戦争に勝つための研究に予算を出しますが、役に立ちそうもない、結果が出せそうにない、時間のかかるような研究からは手を引きます。
太平洋戦争で仁科芳雄博士が原爆開発を命じられますが、時間がかかることと予算の問題、そこまで有効性が認められないことを理由に研究が打ち切られてしまいます。
仁科博士は科学者の立場で物量や技術力の差から戦争に反対していたのに、その声も無視されました。
勝利することが第一義的な戦争が技術力の発展に貢献したとはどうしても思えません。

「戦争と反面教師を同列に語ることは適当なのか?」

戦争が技術を発展させたから必要悪というのは論外として、反面教師の振る舞いをみて子どもがそこから学びとるものがあるから必要ということを同列に考えるのは少し違うのではないでしょうか?
戦争という非日常の出来事と、教育という日常の事柄ではアプローチの仕方はまったく異なります。戦争は一個人が止めることは難しいでしょうが、反面教師の振る舞いは声を上げれば改善できることはあるでしょう。変わらずとも、声を上げることで他者に伝え僅かでも状況を知ってもらうだけでも違いますよね。
教師の横暴な振る舞いがあればそれは教師の資質に関わる問題なので、それは改善する余地があるでしょう。教師の横暴な振る舞いから児童が何かを反面的に学びとるならば、その教師の過った教育の在り方が肯定されていいとお考えになりますか?
戦争というものも、過った教育をする教師も認められるものではありませんが、反面教師は声を上げれば改善する余地があるのに、必要悪という言葉でその存在を認めてしまうのはおかしくありませんかね?
反面教師の教育の在り方が間違っているならば、その教師自身の能力や考え方を変えていく、教師自身の成長ということも考えるべきでしょうし、それをせずに反面教師だから必要悪とするなら、それは過った教育の在り方に加担する以外の何ものでもないでしょう。

4. Fully Hatter さん
[2021/02/06 14:47:12 JST(UTC+09:00)]

> バードさん
まず大前提として、わたしのスタンスとバードさんのスタンスはほぼ同じです。
わたしも、しょうもない先生よりもちゃんとした先生の方がいいに決まっていると思いますし、戦争もない方がいいと思います。

ただ、ここには 2つの注意点があって、1つは現実問題そんなに優秀な先生は多くはないということ、そして 2つ目に、上記の判断は絶対ではないということが挙げられます。

1つめは、微妙な先生であってもいないよりはマシな可能性がある、ということですね。

そして 2つめは、「よいこと」「悪いこと」のどちらかに分類できるほど、ことはそう単純ではない、ということです。

たとえば、パソコンやインターネットは軍事用に開発されたものです。
よって、もし戦争がなければ、我々はパソコンやインターネットはもちろん、Google やあらゆる SNS も作り出せず、AI なんて夢のまた夢です。

たとえば、わたしの中学生時代に生徒をえこひいきする教師がいましたが、それを見てわたしは、誰にでも平等に接しよう、と固く決意した過去があります。

上記のように、戦争や反面教師について、たとえそれが例外的であったとしても、ある面を見れば何かしらのプラスの結果をもたらすことがあり得るので、これらを「完全な悪」だと示すことは不可能だと思います。

5. Fully Hatter さん
[2021/02/06 14:49:22 JST(UTC+09:00)]

■ 正しさの階層について
あまり意識する人は少ないですが、「正しさ」には階層が存在します。

◇ 第一階層「わたしにとっての正しさ」
第一階層は、自分にのみ該当する「わたしにとっての正しさ」です。

たとえばあなたは1日3食食べると元気が出たり、テニスが大好きだったりしても、それはあなたにとっての正しさなので、となりの太郎くんは 1日2食の方が体に合ったり、花子さんはバスケットボールの方が好きだったりします。

幼稚園児の判断の多くはこのレベルなので、たとえばお友だちのおもちゃを奪いたい、というような欲求は彼らにとっては「正しい」ものになります。
「正しさ」の根拠が自分自身なので、自分のすべての欲求は正当化できるからです。(たまにこのレベルの大人も見かけますね)

◇ 第二階層「仲間(民族)にとっての正しさ」
第二階層は、身近な人たちにのみ該当する「仲間(民族)にとっての正しさ」です。

たとえば「この焼き鳥屋は美味しい」であったり「女性は話が長い」というような決めつけ、「戦争はよくない」といった、一部の人間にのみ「正しい」とされる判断がこの階層になります。
(日常的に我々が判断するための根拠のほとんどはこの階層です)

もちろんこれは仲間内に閉じた価値判断なので、まわりのみんなが美味しいと思っていても、となり町の二郎さんは不味いと感じるかもしれません。
実際には話が簡潔な女性は山ほどいますし、仲間の外側には「女性は話が長い」と思わない人もたくさんいます。
戦争が大好きな戦闘狂や特権階級の人にとっては、戦争は正義以外の何物でもありません。

そして、本来は第ニ階層の正しさに過ぎない (一部の人間にしか当てはまらない) のにも関わらず、その「正しさ」を信じたいあまりに、それを第三階層の正しさ (すべての人にとっての正しさ) だと思い込んでしまうことがよくあるので、この部分は注意すべきだと思います。

◇ 第三階層「人間にとっての正しさ」
第三階層はいよいよ、すべての人に当てはまる「人間にとっての正しさ」です。

食べることや子孫を残すこと、新しいことを知りたい好奇心や知識欲などがこれに該当します。

これらは (ほとんど) すべての人に当てはまるので、この階層の判断を否定することはほぼ不可能です。
たとえば「食事をしてはいけない」という主張は無意味です。なぜならば、食事をしないと死ぬので、そのような主張をする個体はこの世に存在しえないからです。

そして、我々の判断がこの階層にまでたどり着くことはほぼありません。
逆に言うと、この階層のように見える多くの判断 (戦争はよくない、犯罪は悪いこと、幸せになるべき、運動はしたほうがよい) は、すべて誤っている可能性があることには注意が必要です。

◇ 第四階層「地球(生態系)にとっての正しさ」
そしてそして、(まだ先があるのかよ、と思うかもしれませんが) 第四階層は「地球(生態系)にとっての正しさ」です。

第三階層まではあくまで「人間」にとっての正しさなので、もう一つ上のレベルから判断すると、たとえば人間は絶滅した方がいい、というような判断もあり得ます。
地球全体の生態系という大きな視点に立てば、人間という種を根絶やしにすることで、他のすべての動植物やあらゆる生物を繁栄させるという選択も十分にありえるからです。

よく、絶滅する動物を保護しようと必死になっている人を見かけますが、本来は、絶滅の是非についてはこの第四階層レベルの判断が必要です。
第二階層止まりの我々がまともに判断できる領域を遥かに超えているので、「何かをしよう」とあまり出しゃばったことをせず、むしろ、人類がやってしまっている「余計な何かをやめる」ことが大事だと思います。

◇ 第五階層「宇宙にとっての正しさ」
ついに、宇宙まで来ました。
このレベルの正しさなんてあるのかよ、と思う人もいるかもしれませんが、それは確かに存在します。

代表例は物理学でしょう。

他の星に、我々とはまったく異なるような生物がいたとしても、彼らも同じ宇宙の住人なので、我々とまったく同じ物理法則が適用されます。

たとえ子孫を繁栄しないような生物が存在したとしても、重力のような力に抗うことはできないからです。

◇ 第六階層「世界にとっての正しさ」
最後に、宇宙の外側に行きましょう。
そこにも実は、正しさが存在します。

それは、数学に代表される論理の世界です。

たとえ宇宙の外側に重力がなかったとしても、論理構造それ自体は存在しえます。
なぜならば、そもそも論理というものはこの我々の宇宙とは何の関係もないからです。
1 + 1 のような概念や、三角形の内角の和が 180° になるユークリッド空間などは、実は、この宇宙のどこにも存在しません。
この宇宙となんの関係もない事象について、宇宙を離れたら成立しなくなる、と考える方が無理があるでしょう。

■ 最後に
長くなってしまいましたが、わたしのいいたいことは要するに、みんな数学や物理学を勉強しよう、ということですね。

6. バード さん
[2021/02/07 11:32:33 JST(UTC+09:00)]

パソコンやインターネットが戦争の産物であるという事実と、ゆえに戦争が絶対悪であるとは言い切れないということも論理の飛躍のような気もします。
パソコンやインターネットが戦争のおかげで発達したことで戦争にも一定の役割があったというのは結果論に過ぎません。戦争でなくて、文明の質を高めるという目的のためだけに予算が使われたなら前のコメントに書いたようにあらゆる資源が失われることもないのだから、より良い技術が開発できただろうし、そちらの方が遥かに効率は良いと思われます。物資、人的資源、戦争遂行の時間、多くの犠牲がある中で、戦争がもたらした効率の悪い技術開発を指して「戦争を絶対悪とは言えない」というのは、はっきり言うとかなり頭の悪いコメントだと思います。

そもそも絶対悪とはなんでしょうか?
自分は絶対悪という言葉は使ってないのですが、この絶対という言葉には注意すべきところがあるように思われます。
物事に対して絶対悪という見方は絶対的真理という見方にも通じるところがあるように感じます。
この絶対的真理は不変の真理というニュアンスを含んでいるものですが、歴史が続いていく以上、真理というものは相対的にしか捉えられないはずです。ある時代に真理だったものが、次の時代にはその時代に合わせて真理性を失うというのは、弁証法的観点から見ても明らかでしょう。
絶対的真理などという言葉自体が空虚なものだろうと思いますが、それでは相対的真理だけが正しいのかというとそういうわけでもないでしょう。江戸時代の斬り捨て御免が正しいものとされた時代と現代とでは、まったく違いますよね。
絶対的真理だけでも間違うし、相対的真理だけでも間違う。絶対的真理と相対的真理を統一して捉えることこそがこの世界の正しい真理の求め方であるし、対立した真理の捉え方を統一することがいわゆる、対立物の統一なのですが、何が正義で何が悪かという問題にも、絶対的なものを求めるのははっきり言って無意味でしょう。
それゆえ、絶対悪という言葉そのものがあまり意味をなさないとは思いますが心情的に多くの命が失われる戦争に対して「悪ではない」という意見には、同意しかねますね。

運動を進める側にも自分や仲間にとっての正しさが人間にとっての正しさであるという認識をする人も多いですが、真理を相対的なものと絶対的なものの統一として運動によって弁証法的に捉えられている人も少なからずいるので、簡単にレッテルを貼るような論説を見ると少し寂しく思います。

7. バード さん
[2021/02/07 11:35:55 JST(UTC+09:00)]

でも正直、自分で勉強せずに与えられた理論だけで思考を止めてしまう人が多いのも事実です。そういう状況を運動の中にいる人間として変えていく必要性は常に感じています。

8. Fully Hatter さん
[2021/02/07 12:03:33 JST(UTC+09:00)]

> バードさん
ありがとうございます。
相変わらず言葉のチョイスが若干強めですね笑 (まあ、わたしはそのあたりはまったく気にしないので問題はないですが)

バードさんの言葉でいうならば、わたしが言いたいことは「戦争は悪」は相対的真理ですよ、という至極当たり前のことでした。
そして、わたしが長々と「正しさ」について語っていたのは、相対的真理と絶対的真理の間に広がる階層構造についての言及でした。

9. バード さん
[2021/02/07 17:33:00 JST(UTC+09:00)]

すいません。

「たとえば「この焼き鳥屋は美味しい」であったり「女性は話が長い」というような決めつけ、「戦争はよくない」といった、一部の人間にのみ「正しい」とされる判断がこの階層になります。
(日常的に我々が判断するための根拠のほとんどはこの階層です)」

少々この部分に引っかかりを覚えたので、挑発するようにわざと言葉を強くしてしまいました。ただそんな挑発もきっと理性的に受け止めてくれるだろうという信頼はありますけどね。

ただこの戦争が正しいか悪かということに、自分だけではなく多くの人が正しい答えを持っていない、持っていたとしても相対的なものであるという事実は、本論の性教育についても似ている部分があるかもしれません。
答えが出せていない、人によって考え方が違う性教育に対して「洗脳」という形で子どもに伝えることと、戦争はいけないと、ある意味での「洗脳」をすることはなんとなく似たものがあるような気もします。
もちろん、成長していろいろな考え方を身に付けていく中で捉え方も変わってくると思うし、それが正しい成長でしょうが。

10. Fully Hatter さん
[2021/02/08 19:52:55 JST(UTC+09:00)]

> バードさん
そうですね、性教育の部分とも通じるところがあるかもしれませんね。
またいつでもコメントお待ちしております。

11. 骨組 さん
[2021/02/11 04:00:35 JST(UTC+09:00)]

初コメ失礼します
私は「性」教育に関しては生物学的視点から教える分には事実に基づいている為問題ないと思っています。
ただし、私は性の在り方などは本来個人の価値観に依存すると考えているので、その価値観に良し悪しを評価することはある意味宗教的であり「教育」ではなく「洗脳」と言えますね

12. Fully Hatter さん
[2021/02/11 10:50:06 JST(UTC+09:00)]

> 骨組 さん
コメントありがとうございます。

実は、生物学的視点にも危険性が存在します。
たとえば、チンパンジーの DNA の 98% は人間と同じですが、チンパンジーは実は、他のサルや他のチンパンジーの集団を襲う生き物です。(戦争をする人間と似ていますね)
そして、たとえば集団の中の若いチンパンジーが台頭してボスの座を奪い取った際には、その新ボスの若いチンパンジーは元ボスの子どもたちを皆殺しにし、その母親と交尾をします。
何がいいたいかというと、たとえば我々は「女性を襲うこと」は間違いだと思っていますが、"生物学的視点" に立つと、もしかしたら「女性を襲うこと」は遺伝子的に組み込まれた本能、つまり「正しいこと」だと結論付けられる可能性があるということです。

もちろん、社会的な視点で考えれば「女性は襲ってはいけない」というルールに基づくほうがはるかに人間社会はうまく機能するので、生物学的視点ももちろん重要ですが、社会的な視点や生態系的な視点など、多様な判断基準を組み合わせながら総合的に考えるべき事象だと思います。


『私は性の在り方などは本来個人の価値観に依存すると考えているので、その価値観に良し悪しを評価することはある意味宗教的であり「教育」ではなく「洗脳」と言えますね』

わたしもその通りだと思います。
そして、本文中でも書いていますが、その「洗脳」こそが日本社会における一つの最適解でしょう。

13. 骨組 さん
[2021/02/11 13:32:27 JST(UTC+09:00)]

返信ありがとうございます

ものすごく博識ですね。
流石にチンパンジー社会についての知識はありませんでした

私の考えとしましては、チンパンジー社会で見られるそのような行動はボスの特権のようなものみたいですね。(女性を景品みたいな表現をしているわけではありません)
人間社会に置き換えたら俺は社長だから何しても許されると言う感じですかね

当然、チンパンジー社会での秩序と人間社会での秩序は違いますし、同じ「物差し」で話をすることはできません。

人間社会でも、時代や国が違えばそれだけ多様な社会が形成されます

そう言う意味ではもし生物学的視点での教材を選ぶ場合にはどんな「物差し」を用いるかが重要になりますね

今回の話でしたら「人類学」「現代社会」「人間社会」あたりの基準とする「物差し」を明確にすることが必要ですね
また、本能や理性・倫理観・価値観・感情のような定量的な表現ができないものは「個人」の「物差し」であり、教育に用いるには不適切である(と言うか出来ない)為、教育には「共有」できる「物差し」である必要がありますね(単位、法律等)

長文失礼しました

14. 凡夫 さん
[2021/02/12 14:41:40 JST(UTC+09:00)]

いやあ、最初から最後までぐうの音も出ないほど正しいw本当にもっともだと思います。意地悪して粗探ししましたが、隙が見つからなかった。

Fully Hatterさんの主張には、いつも「今までそんなこと考えたこともなかった」と思わされると同時にすごく納得させられます。
ブログの内容からは大きくずれますけど、よかったら、Fully Hatterさんはどんなふうにトピックを見つけて(考えて)らっしゃるのか教えて欲しいです。

15. Fully Hatter さん
[2021/02/12 21:27:58 JST(UTC+09:00)]

> 骨組 さん
ありがとうございます。
もし他のページでも何かコメントがありましたら、いつでもお気兼ねなくどうぞ!


> 凡夫さん
毎度ありがとうございます!
わたしは、トピックを見つけるための特別な情報収集などはしていないですね。
基本的なきっかけはだいたい日常のニュースや人との会話、Twitterのタイムラインや YouTubeの動画などで、気になったことや思いついたアイディアについて頭の中で考えながら仮説を立てて、その検証のために本屋さんに行って本を読み漁る感じです。
このサイトの初期の頃は、わたしが中学生から高校生あたりに考えていたことを文章にしてみることが多かったですが、もう今ではその頃のアイディアはすっかりネタ切れですので、日常の新しい発見が記事のベースになっています。

もしかしたら凡夫さんはお気づきかもしれませんが、わたしはかなりのひねくれ者なので、目に映るほぼすべてを常に疑いながら日々生きています(笑)
物心がついたときからの生粋の天の邪鬼なので、親だろうが先生だろうがどんなに偉い人だろうが、誰かが何かを言ったときには必ず最初に、それ本当? という疑いの目を持ちながら今まで生きてきました。(テレビのニュースなんかは、あまりにツッコミどころが多すぎてイライラしてしまうのでほとんど見れません)
素直な良い性格の方には決してマネのできない芸当なのかもです。

あとは、わたしの思考は小学生から高校生までの間に読み漁った本の影響が大きいですね。
小学生時代はひとりでいる時間が好きだったので、よく学校の図書館に籠もって本を読んでいました。
中高生時代は、ブックオフの立ち読みでマンガを大量に読み漁ったり、小説や新書もよく読んでいたような気がします。
小中高で得た書籍ベースのぼんやりとした思考が、大学で学んだ物理学や倫理学などの体系立った学問によってくっきりと形作られた感じかな、と思います。

昔は本によってインスピレーションを受けていましたが、今では本から何かを思いつくことはあまりないですね。
それが本になってしまっている時点で、そのアイディアは他の誰かのものなんですよね。
わたしはオリジナルであることに強いこだわりがあるので、いまのわたしが求めているものは「まだ本になっていない何か」なのです。

16. 凡夫 さん
[2021/02/16 12:05:55 JST(UTC+09:00)]

返信ありがとうございます!

自分は哲学が好きなくせして、あまりにも疑わなすぎることを自覚しているので、Fully Hatterさんの疑う能力を羨ましく思ってしまいます。なので、もう少しひねくれた人間になろうとおもいました!w

Fully Hatter さんは沢山本を読まれてきたからこそ、今は書く側のレベルにいらっしゃるのですね。自分もいつかはそこに行けると信じて、地道に本を読んで、学んでいこうと思います。ありがとうございました!

17. Fully Hatter さん
[2021/02/16 12:25:33 JST(UTC+09:00)]

> 凡夫さん
ひねくれ者にはひねくれ者の辛さがあるのであまりおすすめはしませんがw
本を読むことは良いことだと思います。

友だちや家族には優しくしてあげてくださいね。
人間関係においては、疑う能力は裏目にでることがほとんどなので笑

18. オルカ さん
[2021/02/25 20:11:00 JST(UTC+09:00)]

(コメント No.5 に対しての) 質問です。
1.この場合の正しさの定義は「人が考える、○○(対象)にとっての疑えない事実」或いは「人が考える、○○にとっての利益(繁栄)」とかでしょうか?
2.第三は第二以下階層の正しさを全て含むと見て良いのでしょうか?(大集団は小を兼ねてますか?)

先の質問が正しいの定義に合致するならですが、第一〜三は人が考える対象を自分個人から集団へ、大集団へと視野を広げていった場合だと思います。しかし第四階層以降の正しさは、2.から、まず第三以下から判断するしかないと思います。

第四・五階層を、地球や宇宙にとっての正しさとされていますが、別に地球でなく、太陽にとっての正しさでも、ミミズやオケラにとっての正しさでも、大小問わず「人でない対象」への正しさとしてしまって良いと考えます。色々迷ったのですが、人でない対象で良い気がします。

しかし、この意味では第四・五は殆ど同類の筈です。
何故なら、論理や物理学なども、「人間が正しいと考える疑えない事実」に過ぎないと考えてるからです。この意味では第三に内包されると思います。
例えば、論理の根本を支える、法則やパターンは人間にとってのそれに過ぎず、天体望遠鏡で観察した宇宙は、人間にとっての宇宙の見え方に過ぎないです。既存の論理は知識となりますが、真に視野を広げれば偏見かもしれません。
四・五層は、第三階層的な客観的真理で「成立するとされる」公式を宇宙にまで適用出来るか否かの、「人が成り立つと考える論理の中の」公式の強さの序列として語られてるのだと思います。

第六階層においては、「五感によって観測不可能で、共有される知識や見解がない(想像するしかない)世界」としておいてみました。端的に換言すると、「観測限界の先にあるかもしれない世界」です。科学の進歩により、観測限界は延長されると思いますが、常にその先の「不明のゾーン」が第五層以下を兼ねてる状態の世界だと捉えました。

この場合の第六層的な世界は、2.から全体を内包するでしょうから、ここでの世界の共通見解は、もはやイデア界の具現とすら考えられる真理です。
ですから真理≠数学物理の認識です。言葉を借りればやはり第三階層的な(人が疑えない)真理に止まるのではないでしょうか?
だとすれば、第六階層は「第三階層を意識した第一階層」になり、第一階層の亜種として考えても良いかもと考えます。
理由は「想像上の世界」はどう頑張っても、論理に隙間が多すぎて、正確には第二階層にいけない筈だからです。
数学の世界や論理の概念は第三段階の真理にとどまるように思います。第六を第一と見積もってる自分からは、第一に第三の例えを用いてるという認識で、正直例え話として適切か分からないです。

19. Fully Hatter さん
[2021/02/27 21:16:18 JST(UTC+09:00)]

> オルカさん
オルカさんは西洋哲学にお詳しい方のようにお見受けします。

わたしは、「自分」を中心として語る西洋哲学的な世界観そのものに疑問を持っています。

西洋哲学的な世界観とは、「自分」にとっての世界とは自分に認知できるものだけであり、たとえば (平たく言うと) 南極に行ったことのない人にとっては南極は存在しないに等しい、というような価値観ですね。

人間の認識能力には限界があり、知覚や思考できないことは人には認識のしようがない、というような考え方で、そのような世界観では、死後の世界や宇宙の外側、過去や未来などは存在しない (論じることができない) ものとなります。

わたしは、世界は「自分」が中心なのかどうか、という問いの建て方それ自体が誤りだと思っています。

確かなものがほとんど存在しないこの世界においては、自分が世界の中心だったとしても、神がいるとしても、ディープステートやおばけや地球温暖化も何もかも、根拠を積み重ねてそれっぽい理論を構築することは容易だからです。

天動説でさえ、完璧な論理構築は可能です。

「年周視差」という客観的な実験事実による反例があったとしても、その理論に未知の力 X を仮定したり、例外を次々に追加していくことでいくらでも整合性を保つことが可能だからです。

ですが、現代において我々は地動説を信じています。

これは、天動説に論理的な誤りがあるからではなく、地動説のモデルの方がより世界を美しく (シンプルに) 表現できるからでしょう。

話がだいぶそれましたが、わたしがいいたいことは「自分が中心」だという根拠をいくら積み重ねようと意味はない、ということです。

重要なのは「自分が中心なのかどうか」という問いではなく、「自分が中心である世界」と「自分が中心ではない世界」でどちらの方がよりこの世界を美しく (シンプルに) 表現できるか、という価値判断だと思います。

そう考えてみると、自分が死んだあとも世界が存在し続ける、と考えたほうが、地球上のあらゆる生物がなぜか子孫を残そうとすること等の世界の謎の多くをシンプルに説明できると思います。

前置きが長くなりましたが、以下質問にお答えします。


『1.この場合の正しさの定義は「人が考える、○○(対象)にとっての疑えない事実」或いは「人が考える、○○にとっての利益(繁栄)」とかでしょうか?』

第一階層から順に「自分」「集団・民族」「人間」「地球」「宇宙」「世界」の枠組みの中での真理 (疑えない事実) ですね。
主語が人でなくても価値判断は可能である、というのがわたしの立場です。
たとえば、人間がこの世から消え去っても数は存在し続けます。
三平方の定理は成立し、植物の葉脈や巻貝の断面図は黄金比のままです。


『2.第三は第二以下階層の正しさを全て含むと見て良いのでしょうか?(大集団は小を兼ねてますか?)』

第六階層の正しさはどの階層においても真理ですが、第一階層の真理はより上位の階層では真理ではありません。


『第四・五階層を、地球や宇宙にとっての正しさとされていますが、別に地球でなく、太陽にとっての正しさでも、ミミズやオケラにとっての正しさでも、大小問わず「人でない対象」への正しさとしてしまって良いと考えます。色々迷ったのですが、人でない対象で良い気がします』

階層分けそれ自体にはあまり意味はなくて、第四階層は種の起源のアイディア、第五階層は物理学、第六階層は数学に相当します。


『第四・五は殆ど同類の筈です。何故なら、論理や物理学なども、「人間が正しいと考える疑えない事実」に過ぎないと考えてるからです。この意味では第三に内包されると思います』

種の起源のアイディアはこの世界を美しくシンプルに説明します。
物理学の知見も、この世界を美しくシンプルに説明できます。
これらを別々の階層として捉えることで、哲学よりもはるかに美しくシンプルにこの世界を説明できます。


『例えば、論理の根本を支える、法則やパターンは人間にとってのそれに過ぎず、天体望遠鏡で観察した宇宙は、人間にとっての宇宙の見え方に過ぎないです』

実は、人間には自然言語以外の思考というものが存在します。
たとえばテニスのサーブの技術や絵を描くセンス、将棋の思考などがそれに該当しますが、これらの思考は言語化できません。
そして、数学や物理学も同様に、自然言語以外の思考に分類されます。

テニスのサーブの打ち方を自然言語によって人に教えることができないように、数学や物理学の考え方を自然言語によって記述することはできません。

しかし、それらは紛れもない「思考」であり、この世界をより深く理解するための営みです。

哲学の世界から覗く「法則」や「パターン」は取るに足りないものに見えるかもしれませんが、一歩その世界の外側に踏み出せば、遥かに広い世界がそこに広がっていることに気づくはずです。

「数は何故美しいのか。それはベートーベンの交響曲第九番がなぜ美しいのかと訊ねるようなものだ。君がその答を知らないのであれば、他の誰も答えることはできない。私は数が美しいということを知っている。もし数が美しくないのなら、美しいものなど何も無い」
ハンガリーの数学者ポール・エルデシュ

どなたでもご自由に書き込んでください。
Fully Hatter が愛をもってご返事いたします。


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