「幸せ」を目指してはいけない

〜あなたが見落としている「幸せ」よりも大切なものについて〜

まず最初に、これはあなたへ「何か」を強要するための文章ではありません。
これは私の個人的な思想であって、価値観であって、目標になります。

「なんのために自分は生きているのだろう」

そんなことを考える瞬間が、誰しもきっと人生に一度はあるのではないでしょうか。そして多くの人は

「私は私を幸せにするために生きているんだ」

と結論づけるでしょう。この考えは実に理にかなっています。

どんなに辛いことがあっても、未来の幸せのためだと思えば人は結構頑張れたりします。
そもそも誰だって、不幸せより幸せになりたいと願うものですからね。
不幸せな時間を少しでも減らし、幸せな時間を増やそうというアプローチは、種の保存という観点からもいい考え方のように思えます。

ここでは分かりやすく、人生の目標を「自分の幸せな時間を最大化すること」としてみましょう。

え? 分かりづらい? どんまい!
(だってこうしないと、たとえば美味しいココアとか飲んで、幸せだなぁ、ってなって、お、人生の目標達成しちゃったじゃん! あと特に目標ないし、死のう! ってなっちゃいますからね)

そういう目標を持った人が、例えば豪華客船に乗ったとしましょう。
何千人も乗っている大きなお船ですね。
そして、その大きなお船が氷山にぶつかったとしましょう。
船はどんどん沈んでいきます。
海水の温度はとても低いため、このまま船が沈んでしまえばあなたは海に投げ出されて確実に死んでしまいます。

生き残る方法はただ一つ、救命ボートに乗ることです。

しかし、何千人も乗っている豪華客船です。
全員分の救命ボートなどあるはずもありません。
この中の半数以上は数時間後には死んでしまうことになるでしょう。

このときに、さっきの「自分の幸せな時間を最大化すること」を人生の目標としている人はどんな行動に出るでしょうか。

もちろん我先に救命ボートに乗ろうとするでしょう。
死んだらもう「幸せ」はゲットできないですからね。
自分が生き残るためにはもちろん女子供なんて押しのけて救命ボートに乗るはずです。

これが美しくないなぁ、と私は思うわけです。

「幸せになる」というアプローチだと、どうしても死に際が分からなくなってしまいます。
当然ですよね。
だって死んでしまったら「幸せ」を感じることはできないですから。(たぶん)

だから、さっきのお船沈没事件みたいなときにカッコよく死ぬためには「幸せ」とはまったく違う人生へのアプローチが必要なわけです。

ちなみに、私の現時点での人生の目標は「美しく死ぬこと」です。


この主張に賛同する方は、家族や友人に LINE でシェアしたり、SNS に流してみましょう。

キング牧師
最大の悲劇は、悪人の圧制や残酷さではなく、善人の沈黙である。


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Comments

1. 小野瀬 さん
[2017/09/03 05:39:00 JST(UTC+09:00)]

美しく死ぬことに何の意味があるのか。
他者の目に移る自分を気にしている、フリードリヒ・ニーチェの批判する「畜群」が共感しそうな考え方だ。他者のために道を譲る、それは自分の人生を生きていない人間の周りの目を気にした恥ずべき思想。

俺らは今こうして生きているだけでも、それこそ数えきれない数の先人…人でないものも含め…犠牲の上に立っている。その犠牲の声が聞けるならば、死にたいと思うことなどできるはずもない。美しい死に方は存在しない。何としてでも生き延びる、そして死にゆくものたちのためにも今を生きる、それこそが美しい姿じゃないのか?

俺は都会の鳩が好きだ。神話に出てくるような綺麗な色ではない。排気ガスにまみれ、羽は汚い灰色。それでも逞しく生きている。ゴミを漁ってでも生きている。温室育ちの白い鳩より、俺はそちらが美しいと感じる。

素直に自分の人生を生きろよ。人として生まれたなら、格好を気にする畜群ではなく愛ある超人を目指せ。

2. 小野瀬 さん
[2017/09/03 05:51:00 JST(UTC+09:00)]

というか、豪華客船という一流のものが万が一の事態に全員が助からない救命手段を用意してないわけないだろう。死にたがりにはそれが見えない、ただそれだけのことだ。

3. Fully Hatter さん
[2017/09/03 08:00:00 JST(UTC+09:00)]

数学ができない人にありがちな、仮定に文句つけちゃうタイプね!
どんまい!

一応、以下参考資料。
https://ja.wikipedia.org/wiki/タイタニック号沈没事故

そして、泥臭く生きるべきってお話は、例えば以下のときはどうする?

「あなたには2つの選択肢しかありません。『生きる』か『死ぬ』かです。『生きる』を選ぶと100人が死にます。『死ぬ』を選ぶと100人が助かります。あなたは生きますか?」
(これでも『生きる』を選ぶあなたは、例えば100人でなく1000人だったら? 1万人だったら? もしくは60億人だったら?)

「あなたは100歳です。そして特殊な病気です。病気が治る見込みはありません。ですが、このまま治療をすれば10年は生きられます。ただし、年間1000万円かかります。あなたには貯蓄はないので、家族が代わりに治療費を払うことになります。(その場合、家族全員が極貧生活を余儀なくされます。) あなたには選択肢があります。治療を『受け入れる』か『拒否する』か、です。あなたは生きますか?」

4. 小野瀬 さん
[2017/09/03 11:43:00 JST(UTC+09:00)]

どちらにしても間違いなく生きるだ。

他人のために俺は生きていない。他人に何かをする、他人に思いやりのある行為をすることも自分のためにすることだ。

それにもしそこで他人のために死に、そのことが評価されたらその後の社会はどうなる?他人のために死ぬことこそが正解という、自己に嘘をつかなければならない社会の育むきっかけになるだろう。

極貧の生活、結構じゃないか。むしろ極貧の生活の中でこそ人は真に価値のあるものを見つけることができる。貧乏とはチャンスなんだよ。それも、生きてこそそのチャンスを生かすことができる。

己というものを知っていれば、自ら死を選ぶことはあり得ない。

5. Fully Hatter さん
[2017/09/03 11:48:00 JST(UTC+09:00)]

>> 小野瀬
やるじゃん!

6. Finland Potter さん
[2017/09/03 15:13:00 JST(UTC+09:00)]

沈没しかけの船で僕は必死で多くの人を助けようとする
沢山頭も使い、体力の全てを捧げて助けようとする
そして僕は見つける、同じように純粋に人を助けようと頑張っているエリート集団を

彼らは物凄いチームワークと人力で、沢山の人を助けていく
僕の頑張りがアホに見えてくるほどに

僕は助けられる側でも、このThe Rescue Teamの一員でもないが、
やはり自分が出来る限りのことをやろうと思う
勿論、彼らに混ぜてもらい共に行動することもできるかもしれない
が、なぜだろう、それはやる気が起こらない

そんなこんなで最後の救命ボートの時間がきた
最後の仕事というわけでもないが、一層気合が入る
ふと眼に映ったのはあのThe Rescue Team、救命エリート集団だ

なんと彼らは最後のボートに乗っていく、
彼らはボートに乗ることが保証されていたようだ
僕は唖然とする
勿論、彼ら一人一人、僕なんかより仕事をしていた
僕と違ってこの日の為に過酷なトレーニングを積んできていたに違いない

でも僕は思う
「なんだ、お前たちは結局助かるのか」

しかしもう一度考えてみると、
「いや、彼らは他の場面でも沢山の人をこれからも救出していく貴重な人たちだ」

そこに僕の頑張りを見ていた他の人が寄ってきて声を掛けてくれた
「君もよく頑張っていたよ」

僕の小さな仕事を認めてくれる人がいた、嬉しいものだ
でも、僕の本心はこうだ
「あそこで、救命チームに混ざることができていたら、僕は助かっていたのかもしれない」
「そしてそれが僕が今思う僕が取るべきだった行動だった...」

7. Fully Hatter さん
[2017/09/03 15:42:00 JST(UTC+09:00)]

>> Finland Potterkさん
とても面白い観点ですね!
読み物としてもとても素敵だと思います。

個人的には、エリート集団に圧倒されながらも、自分に出来る小さなことを頑張って、そして最期には、去っていくレスキュー隊のことなんか何も気にならなくなって、いい人生だったな!って人生を締めくくりたいですね。

8. 小野瀬 さん
[2017/09/03 16:06:00 JST(UTC+09:00)]

でもまぁそもそも俺ハンターの素質あるから、こういうドキドキ2択クイズは苦手。こんなこと言われたら試験官に殴りかかるか沈黙する。

9. Fully Hatter さん
[2017/09/03 16:10:00 JST(UTC+09:00)]

>> 小野瀬
なかなか面白い考えだったよ!
キミがとても大人になっているようで、これからが楽しみですな。

なんか面白いことしてくれ!

10. 通りすがりの人 さん
[2017/09/03 22:27:00 JST(UTC+09:00)]

『美しく死ぬ』ことが目標とは、とても考えさせられます。
人によって何を美しいと感じるかは違うと思うので、Fully Hatterさんの『美しさ』の基準をもっと知りたいです。


豪華客船の例えを読んで、私ならどうするか、と考えていて宇多田ヒカルのこの歌詞が頭に浮かびました。

『変えられないものを受け入れる力、そして受け入れられないものを変える力をちょうだいよ。』

私はこの歌詞のように、受け入れる強さと変えていける強さを持って生きていきたいんだと認識しました。

ーーーーーーーーーー
2択の質問ですが、
最初は『生きる』、次は『拒否する』を選びます。

最初の質問を迫ってくる“何か”を消すことができるなら、そのための行動を起こします。
それが無理なら生死を選択できる側にいることを受け入れて100人の犠牲の上で生きていきたいです。(逆の立場なら選択する権利のない運命を受け入れたいです。)
次の質問は、不治の病である自分の余命を受け入れたいので治療を拒否します。

Fully Hatterさんはどうですか?

11. Fully Hatter さん
[2017/09/04 20:42:00 JST(UTC+09:00)]

>> 通りすがりの人 さん
「あなたには2つの選択肢しかありません。『生きる』か『死ぬ』かです。『生きる』を選ぶと100人が死にます。『死ぬ』を選ぶと100人が助かります。あなたは生きますか?」
→ (もしその100人と面識がなければ) 死にます

「あなたは100歳です。そして特殊な病気です。病気が治る見込みはありません。ですが、このまま治療をすれば10年は生きられます。ただし、年間1000万円かかります。あなたには貯蓄はないので、家族が代わりに治療費を払うことになります。(その場合、家族全員が極貧生活を余儀なくされます。) あなたには選択肢があります。治療を『受け入れる』か『拒否する』か、です。あなたは生きますか?」
→ 拒否します

現実に同じ状況が起こったとしても、たぶんどちらの場合も自分は死を選べるんじゃないかと思います。(と信じています。)

理由を聞かれると難しいですね。
というか、こういった問題は美的感覚や趣味嗜好が関わってくるので、論理を使って説明するというのは不可能への挑戦みたいな側面があると思います。

ひとつ言えることは、私は『功利主義』というものに大きな影響を受けています。
『功利主義』とは、簡単にいえば一番効率がいい方法を選びましょう、という考え方です。
(『功利主義』にもいろいろな流派があるので、詳しくは本などを読んでいただければと。)
50人が幸せになる選択と100人が幸せになる選択があったら、100人を幸せにしましょう、ってことですね。

ただ、たとえば最初の問題の100人が、全員自分の嫌いな人間だった場合には、迷わずに『生きる』を選んでしまうだろうな、と思っています。

12. Fully Hatter さん
[2017/09/04 20:42:10 JST(UTC+09:00)]

(一応ここで予防線を張っておきますが、私は自分の価値判断はかなりの程度間違っていると思っています。自分がいいな、と思っているものでも、実は全然大したものでなかったり、こんなものなくなればいいのに、と思っていても、実は自分にとってなくてはならないものだったりしていると思っています。そしてその間違いは数え切れないくらいあるだろうな、とも思っています。ですが、信頼できるのは自分の判断だけだとも思っています。ですから、私の『嫌い』という判断についても、それが間違っているかもしれないとビクビクしながらも、また同時にその判断を尊重もしています。)

私はすべての人間の価値が同じとは思っていません。
というか、すべての生き物にはそれぞれ異なる価値があると考えています。
死を間近に控えたおじいちゃんおばあちゃんよりも、赤ちゃんの方が価値が高いと考えています。
アリよりもクジラの方が価値が高いと考えています。(クジラの方が生涯に食べる量が多いからです。多くの命の犠牲の上に成り立っているということは、それだけの価値がなくてはならないと思っています。もしアリとクジラの価値が同等ならば、クジラは絶滅すべきです。)

そして、『私』と『嫌いな人100人』を天秤にかけて、私の方が価値が高いのではないかと思っています。

13. Fully Hatter さん
[2017/09/04 21:16:00 JST(UTC+09:00)]

念のため補足です。
私には嫌いな人はあまりいません。

ですが、今まで会ってきた何千人の人たちの中の五人ほどの人間に対して、(この人は死んだ方がこの世界のためになるのでは?) という疑いの目を持っています。
彼らは人を苦しめています。そして、彼らが人を苦しめているということを、まわりの人たちはもちろんその人自身もはっきりと認識しています。

『嫌い』な人というのはそういった人たちのことを指しています。

14. やまげ さん
[2017/09/07 01:07:00 JST(UTC+09:00)]

解釈が多分ずれていた。

感想としては①幸せについて本気出して考えてるけど、幸せについて定義してない。②幸せって人それぞれだよね

の2つを思った。

「幸せ」というのが結局定義されていないから幸せの時間の最大化については、何が幸せなのか分からない。

フリーハッターさんの美しく死ぬってのも美しい行為をしている時には、デルタ関数的に主文の意味での「幸せ」を感じているだけで、それ以外の時間に「幸せ」って感じない人なのではって。

それって結局幸せの時間の最大化とも解釈できるんだけど、どう思う?

だから命題の幸せタイムのマキシマイズは間違っていなくて、もっと細かく言うなら人生における命題は自分が何に幸せを感じるのかってのを突き詰めて、それを最大化することだと俺は思うんだけど、フリーハッターさんはこれに対してどう思う?

15. Fully Hatter さん
[2017/09/07 20:41:00 JST(UTC+09:00)]

>> やまげ さん
まずは補足をします。
”美しい行為をしている時には、デルタ関数的に主文の意味での「幸せ」を感じている”
おそらく文系の人には訳がわからないと思いますが、要するにこれは、たとえば人から褒められたりしたときは「幸せ」は 1 くらいだけど、美しい行為をしたときは 1兆 くらい、って意味です。

本題に入ります。
やまげさんの主張はこうです。
Fully Hatter もある意味では「自分の幸せな時間を最大化すること」を人生の目標としているのではないか。

結論から言うと、私はやまげさんとは認識が異なります。

やまげさん理論に基づくと、お船沈没事件の際にこんな葛藤が生まれるのではないでしょうか。

(いまはとりあえず生き残っておいて、あと50年くらい「幸せ」をゲットし、そのあとにまた、今日みたいな事件に出くわしたときに「デルタ関数的な幸せ」をゲットすればいいのではないか)

私のお話のスタート地点は、実は感情です。
「こういうときに醜く生き残ろうとしてしまうのは、美しくないなぁ」という私の感情がベースになっています。
なので、さっきのような葛藤が生まれてしまう理論は私には適用できません。
どんな理論も必ずある仮定がベースになっていますが、私のベースが上記の美学になります。

またさらに、違った観点からやまげさんの主張に反論するならば、人は死んだあと、もしくは死ぬ瞬間に、どうなるか、何を感じるか、「幸せ」なのかどうか、それは誰も分かりません。
そんな、よく分からない死というものを定量的に計算することは不可能かと思います。
ですので、人生の目標が定量的なものであればあるほど、人は死を選べなくなるのではないかと思っています。

どうでしょうか?

16. やまげ さん
[2017/09/07 22:56:00 JST(UTC+09:00)]

なるほど。まず補足です。「デルタ関数的な幸せ」の意味だけど、
デルタ関数ってある一点xにおいては幸せがあり(f(x)=1)、
x以外では感じない(f(x以外)=0)という意味で言っています。
だから、沈没の際には他人を助けることに美しさを感じる人ならば、
「幸せ」を得られるから助ける。ちょっと解釈がズレていたと思いました。

ただ結論としては1,0のデルタ関数を用いるか、それ以外の例えば1兆,1のデルタ関数を
用いるかで美学的なものはハッピータイムマキシマイズになるかどうかの
分かれ目になって、それは最早モデルの違いでしかない。どうでしょ?

それから下のほうの反論はちょっとよくわからんとです。
自分の意見としては「死ぬまで」に、自分なりの幸せを見つけてそれを最大化するのが
ある程度いいって主張なんだけど、なんで死ぬ瞬間や死んだ後の話に繋がってくるのか
ちょっとわからないです。解説してほしいです。
あと、定量的な計算ってのは多分に偏見じゃないですか?(笑)

ただ、そこは実は自分も悩んでいて、マックスウェーバーの議論でもあるけど
人生を合目的的と捉えるか否かで悩んでいるんだよね。
個人的には世の中に、意味なんてものはすべて後付けでしか存在し得ないって思う。
でも、だからこそ何らかの意味を見つけたいけど、そんなものない気がしている。

脱線してしまったけど、人生って、とても短い気がしていて(高々80年)、
そうなるとやりたい事、楽しい事、嬉しい事がたくさんあるし、
ある程度は合目的的に生きたほうが幸せな気がしているんだけど、どう思う?

17. Fully Hatter さん
[2017/09/08 06:51:00 JST(UTC+09:00)]

>> やまげ さん
すみません、長くなります。

一応お伝えしておくと、私は美しい行為以外にもいろいろと幸せを感じる人です。

そしてまた、お船沈没事件では、目の前には選択肢「生きる」「死ぬ」のどちらかしかなくて、どっち選びますか? って状況を想定してます。死ぬ瞬間のお話をしているのは「死ぬ」を選んだときの幸せについて論じたいからです。やまげさんの言う「美しい行為」が、それすなわち「死ぬ」を選ぶこと、というイメージですかね。

■ 以下本題
ある行為についてそれが「幸せ」かどうかは、やってみなければ分からない、ということが言いたかったです。

チョコを食べてみた。幸せは1だった。アイスを食べてみた。幸せは100だった。これからはチョコよりアイスを食べよう!

ってのが、幸せを最大化する人の基本的なアプローチかと思います。
幸せ関数的なモデルがはじめから与えられているわけではありません。

人生で初めて経験することの幸せを、その経験に先んじて感じることはできません。
できるのは、過去に感じた幸せのパターンから、これから感じるであろう幸せの量を推測することだけです。

ですので、誰も経験したことのない死については幸せは原理的に測定不可能です。

ということが言いたかったです。

伝わります?

幸せを最大化することを目標にしてしまうと、なるべく長く生きるほうが明らかに有利だ、という結論になるのではないかと思っています。
(もちろん、ご指摘のように幸せ関数が極めて特殊な形状の人間にとっては、その限りではありません。)

18. Fully Hatter さん
[2017/09/08 06:51:10 JST(UTC+09:00)]

■ ちなみに
死を選ぶことは生き物にとっては基本的に「狂気の沙汰」かと思います。
(この場合の「死を選ぶ」には老衰などは含まれません。選んでないですからね。生きる選択もあるけれど、あえて死を選ぶ、って意味です。)
もし「狂気の沙汰」でなければ、どんどんみんな死を選んですぐに絶滅しちゃいますからね。
ですので、私の理論はどうしたら狂人になれるか、という理論とも言えます。
私が出したひとつの答えが、人生の目的を死ぬことにしてしまえばいいのではないか、というものです。

■ 合目的的に生きることについて
もちろん私も幸せの量が多いに越したことはないと思っています。ですが、それを最優先事項にすると、ある特定の場面では直感に反する行動(美しくない行動)を取ってしまうことになる、ってことが言いたいです。

ちなみに、「美しく死ぬ」ために生きることも合目的的かと思います。

19. 小野瀬 さん
[2017/09/08 14:09:00 JST(UTC+09:00)]

期待していいぞ、俺は海賊王になる男だからな。股間のログポースの指す新大陸(女ヶ島)目指して頑張るわ!
ワンピースお土産に持って帰ってくるよ。間違えて暗黒大陸行って不死の病・ゾバエ病持ってきたらごめんな。

20. せる せろり さん
[2019/04/19 01:34:48 JST(UTC+09:00)]

こんにちは。

Finland Potteさんの意見がなんか文学的ですごいと思いました。
なんか感じ入ってしまった。

なぜなら、最後の瞬間まで全力で”生きてる”からです。
自分ができることを一瞬一瞬に見出して生きてる。
そして、最後は自分は居場所がなくなって”殺される”だけ。
これはなかなか幸福だと思います。
美しいを納得と言い換えたら、まさにピタッと来る。

でも、さらに”殺される”のは気に食わない、とも思うでしょうね。
生き残っても何の役にも立たない自分を助けるために、
のうのうとボートに乗り込む人。
蹴落としてやりたいというのも、美しい意志のような気もします。

うーん、私はどうするかなぁ。
究極、死が終わりとは毛頭思ってない私には、
そもそもこの問いが成り立たないところではありますね。
そして、行き場がなくなって死ぬというのは、
死の形はそれしかないと思ってますねぇ。

21. Fully Hatter さん
[2019/04/20 10:47:16 JST(UTC+09:00)]

> せる せろり さん
死が終わりではない、というのは非常に共感できます。

たとえ死んだとしても、自分を構成している体の物質が突然なくなるわけではなく、それらが土に還って花となったりするわけですからね。

逆に生きている間でも、人は食事を通して新しいものを体に取り入れ、不要なものを排出し、体を構成している物質は絶え間なく入れ替わり続けます。

そういう意味では、人は日々「死に続けている」といえるのかもしれません。

22. せる せろり さん
[2019/04/29 07:11:16 JST(UTC+09:00)]

こんにちは~
ご回答ありがとうございます。しばし、選挙戦に熱中しておりました。

『たとえ死んだとしても、自分を構成している体の物質が突然なくなるわけではなく、それらが土に還って花となったりするわけですからね。 』

物質がまずそうなんですよね。
今度は意識のありか、脳ですよね。
これが壊れる。怖いらしい。
なぜなんでしょうね?
物質ですよね。

思うに脳は関係性そのものだと思うのです。
シナプスでつながってますから、物質的にもそうだし、
脳という構造が果たす機能である精神も、
たぶんですが、関係性に多大な影響を受けている。

物質としての死も、脳としての死も怖くない、と、
脳が納得してる精神、というのはすごいと思います。
その人にとっては精神こそ、もともとないものですね。
心から精神がない(何この表現?)人が何をするかはちょっと怖いですね。
哲学は精神(あるいは魂)は永遠と思ってるところがあるから、
対極の死の超克ですから。

>そういう意味では、人は日々「死に続けている」といえるのかもしれません。

絶望は死でしょう。本当の絶望がどんなものかは知らないだけで。
死にかけた人の話とか聞くと、やっぱそうかなと思ったりしますが、
これは思うだけにとどめています。

23. Fully Hatter さん
[2019/05/06 16:22:58 JST(UTC+09:00)]

> せる せろりさん
関係性の力はすごいですね。
同じ物質の組み合わせでも、その関係性が異なるだけで振る舞いがまったく異なる場合もありますからね。
将棋や囲碁のパターン数も、宇宙の原子の数より多いといいます。

そう考えると、関係性という概念には人知を超えた何かがあるのかもしれませんね。

24. TaekoAsano さん
[2019/12/16 21:36:49 JST(UTC+09:00)]

美しく死ぬ。ありがたいお言葉です。お稽古事とはすべからく私が習っている(休み中だけど)太極拳に限らず、上達に際限がない。ポンキッキに出演していた女の子の華麗な演技にあこがれていた私が初心者として入門して1年ほどたち、先生に「私はいつになったらうまくなれるのですか」の質問に「死ぬ前の日です」とのお答えだった。Learn as if you were live forever, live as if you were die tommorow.最近のお気に入りの言葉は「学ぶために働く」Work to learn , not to work for money.

25. Fully Hatter さん
[2019/12/16 22:52:11 JST(UTC+09:00)]

> TaekoAsano さん
コメントありがとうございます。
確かに、お稽古事のように終わりのない営みにも美しさを感じますね。
結果ではなく過程そのものを味わう姿勢に心惹かれるのでしょう。

わたしの本文に関連付けるならば、そんなお稽古事の世界観でも、上記の「お船沈没事件」でカッコよく死ぬ「正解」を選べるのではないでしょうか。
結果に執着しない潔さが、理想の生き方を選び取る意志の力の支えになっている気がします。

26. あっちゃん さん
[2020/07/05 21:26:54 JST(UTC+09:00)]

「私は私を幸せにするために生きている」派の、難しいことはわからない極凡人です。

なぜなら「私を幸せにする」のは、他者の幸せだからです。

お船沈没事件で、女子供を押しのけてでも救命ボートに乗らないのは、死ぬのが美しいからではなく、女子供の幸せを願うからです。(幸せが曖昧なら、例え自分が辛かったとしても、できる限りその人たちの痛みや苦しみを軽減したいと願うからです。)

個人的には、自分が救命ボートに乗らなかったとしてもそのまま海に身を投げたらまったく美しくないと思います。

私は、そんな状況にあっても、他者の不安を癒し、痛みや苦しみに寄り添うのに自分の生の最後の一秒までを大切に使い果たす人の方がよっぽど美しいと感じます。

将棋などが美しいのは、個人的には、個人的な満足のためだけではなく、人が困難な状況や限界に挑んでいく姿が他者にとって美しく映るからだと思います。

もちろん個人の探究心などのためだけにそういったものに打ち込む人はいるでしょうが、それがまったく他者の役に立たなかったらそれこそ絶滅してると思います。

27. Fully Hatter さん
[2020/07/06 22:26:13 JST(UTC+09:00)]

> あっちゃん さん
コメントを読む限り、あっちゃんさんは「女子供を押しのけてでも救命ボートに乗らない」派なので、あっちゃんさんは「私は私を幸せにするために生きている」派ではないと思います。
「自分の幸せ」よりも大切なものをお持ちの素晴らしいお方とお見受けします。

28. あっちゃん さん
[2020/07/08 17:42:56 JST(UTC+09:00)]

>Fully Hatterさん 

お返事ありがとうございます。こうやってみると鼻息荒い私、偽善者っぽくてサイコーですね。笑笑(イザとなったらどう自分が行動するか見てみたいものです。)

でも、極論を語ると、自分が見えてなかったことが色々見えてきて面白いですね。

とりあえずは、みなさん仰るように、土に還って微生物の役に立つくらいを目指すのがいいのかも知れません。

ありがとうございました。

29. Fully Hatter さん
[2020/07/08 18:04:12 JST(UTC+09:00)]

> あっちゃん さん
また何か思うことがありましたら何でもどうぞ!

30. 無極 さん
[2020/07/21 00:27:53 JST(UTC+09:00)]

「美しく死ぬ事が自分にとって幸せ」なのではないでしょうか。同じものを食べても幸せになる人とならない人がいるように、幸福の発生は個人の感覚や価値観が関わってくるところであります。
一方で、幸福が行動原理において支配的なのは各人において共通しています。他人の幸せを望むのは、優しいとも形容できますが、言い換えれば「他人の幸せに寄与することで幸福を感じる」ということです。これは「他人を蹴落としてでも生き残ることで幸福を感じる」のと、同じ地平にあるものだと思います。根本的には、聖人も悪人も、手段が違うだけで同じように動いているのです。

31. Fully Hatter さん
[2020/07/21 20:59:14 JST(UTC+09:00)]

> 無極 さん
「美しく死ぬ事が自分にとって幸せ」については、まさにその通りだと思います。

ただ、これは「自分の幸せを最大化すること」ではないので注意が必要です。
これはもしかしたら、「足るを知る」の概念に近いのかもしれません。

32. 無極 さん
[2020/07/21 22:52:27 JST(UTC+09:00)]

>Fully Hatter さん
お返事感謝します。
ヒトは無意識に幸福を追求するもので、その感覚に支配されています。
しかしなるほど、このような「無意識の幸福追及の行動原理」と、意識的な幸福の最大化は異なる動きですね。

ボートを死に物狂いで取り合う人が、それを後に後悔することもあるでしょう。我々の判断能力は完全ではなく、未来を見たものはいません。行動は凡そ推測のみによって成り立つものです。
幸福な時間の最大化を目指しても同じ行動に出ることは可能ですが、この故に得策ではなくなるのかもしれません。
更に抽象化すると、幸福を最大化しようとするのも幸せになろうとしないのも、無意識に幸せになろうとして行われるものですが、確かに後者の方が結果的には幸せになれる人は多そうだ、と結論付けられます。
他方、これはある種宗教に近いもので、例えば欲望に従って悪事を冒してもよっぽど緻密にやって且つ運もなければ長期的には損する場合が殆どだということを、言葉では分かっていてもヒトは理解出来ません。。故に「お天道様は見ている」だとか、「天網恢恢粗にして漏らさず」「悪因悪果」という「教義」で、行動決定のプロセスから当人の推測を排するのです。
多くの人々にとって、他者への貢献は本能に根差した快楽であり、ある程度の奉仕的な行動は幸福を生み出します。しかし、このような社会性の複雑さ、即時性や目に見える利益の無さから、これを計算して行動に移せる人は少ないんですね。
なので私は、日常的な心がけとしてこのような考えの元で生きるのは一種の正解だと思います。実際、こういうやり方で行った方が結果的に幸せになれるでしょう。
しかし、このような思惟の場においては、折角命を賭けることなく机上でゆっくり計算できるので、もう一歩踏み込んで「この美しく死ぬ選択を、教義ではなく通常の行動決定プロセスによって求められたなら、途中式はどうなるのだろう」「なにが美しく死ぬのを邪魔しているのだろう」「この死に方を美しいと感じるのは何故だろう」「なぜ美しければいいのだろう」などと穿ってみると、より面白いかもしれません。「生き方」としてはこの記事は充分なものだと思いますが、「哲学」「幸せ」としては、まだまだ味わう余地があると思います。気が向いたなら、是非やってみてはいかがでしょうか。

33. Fully Hatter さん
[2020/07/25 10:25:20 JST(UTC+09:00)]

> 無極 さん
無極さんの、「この美しく死ぬ選択を、教義ではなく通常の行動決定プロセスによって求められたなら、途中式はどうなるのだろう」「なにが美しく死ぬのを邪魔しているのだろう」「この死に方を美しいと感じるのは何故だろう」「なぜ美しければいいのだろう」の問いに関連して、このページに「書かれていない」部分について。

まずわたしは、「美しさ」は論理や文字の世界では表現できないと考えます。
論理的な思考や言語的な思考の有無によって、その人が感じる「美しさ」には違いが (ほとんど) ないからです。
「美しさ」を記述できるのは、絵や音楽、ダンスなどの言葉なのかな、と思います。

もちろん、「美しさ」とは何なのか考えることは可能ですが、それはたとえばテニスのサーブのフォームを言葉で説明するようなもので、本質からは少し離れてしまう気がしています。

34. 無極 さん
[2020/07/27 22:44:26 JST(UTC+09:00)]

> Fully Hatter さん
美しさが記述出来ないかもしれない、というのは分かります。言葉は世界を分節する刃物で、言葉によって世界を記述することは、切り分けられたケーキを元に戻そうとするようなものです。
しかし、それを言ってしまうと、あらゆる記述は無意味となります。
「美しい」と感じたということは、そこには因果があります。その死に方をプラスに評価した理由や、その評価を作る元となった価値観が。或いは神経の振る舞いが。心理学的な感情の揺れが。
私の見立てでは、芸術も表現手法が異なるだけで、結局は「言語的」かなと思います。音の上下や色の階調は数学的で、数学は言語性の究極形です。言葉が認識に基づいて切るとすれば、数は無限に等分して切っているようなものです。いずれにせよ、そこには切断があり、そのものを記述できるとは言えないでしょう。
つまるところ、美しさの記述不可能性はその他の全てと同じものであり、これは消去主義的な処理可能性を孕んでいます。
テニスのサーブを倫理とすれば、言語や論理での説明を試みるのが哲学です。
語りえぬものとして信奉されてきた存在として、アブラハム系宗教のYHVHがあります。その神の如く、追求をやめて神秘に留めることは、倫理的態度としては充分なものであり、故にこそ私は「幸福を量的に計算するより、美しく死ぬと決めておいた方がいい」という姿勢には一定の妥当性見ます。
しかし、哲学者として、また科学の徒として、これを説明しようと試みる意味はあると思うのです。
それは、ダンスが何故心に響くかを、脳科学や物理学、生物学等の科学的見地によってつぶさに明かすような無粋なものです。しかし神秘を神秘として飲み込んでしまえば、人は歩みを止めてしまうのです。
長々と書いておいてあれですが、要は懐疑主義的に哲学的・科学的考察の余地がある、ということです。
最後に一応付け加えておきますが、実際に考えるかどうかは当然貴方の判断ですし、一般論としてはここではいやりませんとは言い難いものです。気を使わせるのは本意ではないので、「私の提案に乗るかどうか」は答えなくて大丈夫です。

35. Fully Hatter さん
[2020/07/27 23:30:26 JST(UTC+09:00)]

> 無極 さん
芸術を「言語的」と捉えるならば、おっしゃる通りだと思います。
(ちなみに、いま気づきましたが、無極さんのご指摘の内容に近い部分はこのサイトの「あなたにとっての「幸せ」は?」で触れています。もしご興味があればそちらもご参照ください)

単にわたしと無極さんの言葉の定義の違いなのかもしれませんが、わたしが言いたかったことは、「自然言語 (哲学, 倫理)」「論理 (数学)」「絵」「ダンス」「禅」それぞれはまったく異なる種類のナイフであり、この中の「自然言語」と「論理」のナイフでは「美しさ」を切り出すことすらできないのでは、というのが趣旨です。
そして、このサイトはまさに「自然言語」と「論理」の世界なので、この場で「美しさ」を論じるのはキツイだろうな、という所感です。

ちなみに、わたしは現代の「脳科学」と「生物学」については、そのアプローチの仕方そのものに疑問を持っています。
まあ、これらは極めて難しい領域で、人類がまだほとんど何も分かっていない状態なので仕方ない部分はありますが。

『「美しさ」とは何なのか、それを解き明かすために歩みを止めてはいけない』については同意見ですが、どう歩みを進めればよいのかがそもそも分からない、というのが現時点での人類の立ち位置かと思います。
何となくの言葉遊びや論理遊びで歩みを進めた気になるのはちょっと違うかな、と。

36. 無極 さん
[2020/07/28 00:04:09 JST(UTC+09:00)]

個人的には、切り出せないとするのは早計ですし、仮に切り出せないなら切り出そうとするのは無意味なのか?と問われればかぶりを振ります。「分からない」わけですしね。そこで決めつけて躊躇するのは、可能性を手放す行為であり、寧ろ怖いなと思う次第です。
人類が滅びないうちは間違えてもなんとかなるので、好きなだけ間違えればいいと思います。結果的に間違えたまま死んでも、それはそれでそういうものだったんでしょう。
脳科学などのアプローチが誤っていたとしても、まあ錬金術みたいなもんです。無駄になるとは考えにくいです。錬金術は化学の礎となったわけですから。懐疑的になってしまうなら、元の文章からは取り除いて「科学的見地」の部分だけ読んでください。

言葉や論理を弄して分かった気になるのは違う、というのは全面的に同意します。もっともらしさに腐心してこの営為の意味を見失うのは最も警戒せねばならぬことです。が、遊ばなければいいだけですし、もし迷い込んだ時のために不断の自省が重要なのだと考えます。

37. Fully Hatter さん
[2020/07/28 00:15:28 JST(UTC+09:00)]

> 無極さん
完全に同意です。

一点気になる点としては、言語的思考や論理的思考を一切持たない人間も美しさを感じるということですね。

そうであるならば、その「美しさ」は言語的、論理的側面は一切持ち得ないはずで、哲学のような自然言語を用いるアプローチでは限界があるかな、という予想でした。

まあ、わたしももちろん正しいアプローチが分からないわけですが、一個人の幸せを表現する方法としては絵やダンスのような原始的なアプローチが最適な気がしていて、より真理に近づくためには「哲学」のようなアプローチではなく自然科学的 (統計など) なアプローチの方に軍配が上がりそうかな、と。

38. 無極 さん
[2020/07/28 18:25:55 JST(UTC+09:00)]

>Fully Hatter さん
うーん、「言語を解さない人」はいても、「言語的思考を持たない人」はいないと思いますね。
我々の認識は常に言語的分節と共にあります。本来的な混沌を知覚することは原理的に不可能で、我々にとってはどこまでいっても秩序だった世界です。人類がとれるアプローチは全て言語的です。
さらに言えば、これは生物という特定の主体自体が言語的認識にすべからく頼るものだからこそ現れるものです。卑近な例ではペットですね。犬猫は飼い主とそうでない人間を明確に区別していますし、床や家具と人間も区別しています。どれほど原始的な動物でも……例えばナメクジや昆虫でも、餌とそうでないものを分けています。これは認識が言語的分節と共にあるがゆえです。
なので、「言語的アプローチ」と「言語によるアプローチ」は異なっていて、いかなる芸術や科学も言語的なのです。
あとこれはおそらく哲学という言葉の曖昧さ或いは多義性故ですが、「哲学としてこの記事の話題をより楽しむ」というのは、「神秘を神秘のままで終わらせない」ことであり、そこには科学的アプローチも当然含まれます。
因みに、楽しむことはできても、美しさ含めあらゆるものの「知」は私の見立てでは不可能です。どこかで我々の認識限界が何らかを秘匿します。そもそもが「言語的アプローチ自体が、元来アナログな世界を恣意的に分断するもの」であるがゆえ、言語的アプローチしかとれない我々には、全て、或いは深奥の事実を知ることは不可能なのです。これは私がTwitterで空白さんとお話して(そしてふりまこさんに読まれて)いた、「人類は宗教的でしかありえない」と同じ話ですね。
絵やダンスも言語的なもので、ともすれば「異言語」と捉えることも可能です。無論、他のあらゆる表現方法も。
まあ、(自然言語による現実理解を目指す、狭義の)哲学、とりわけ近代以降のものは論理を弄した言葉遊びに終始するものも多いですし、それを不信に思うのも仕様のないこととは思います。
要するに、「美しさ」は、「美しいものは美しい」というトートロジー以外ではどうしようもなくなってしまうほどの神秘ではないということです。その奥には人間の認知、脳機能、文化や社会、生物としての仕組みと世界の仕組みが眠っているはずですから。美しさだけでなく、「可愛い」「美味しい」「面白い」「気分がいい」「気分の悪い」等々……あらゆる価値判断に言えることです。「美しい死に方」だけで終わらせてしまうのは、勿体ないですよ!というお話でした。

39. Fully Hatter さん
[2020/07/28 19:10:54 JST(UTC+09:00)]

> 無極さん
わたしが「言語的思考」といってるのは単に「自然言語的思考」のことです。

対して、無極さんの「言語」が指してるのは「自然言語 (哲学, 倫理)」「論理 (数学)」「絵」「ダンス」「禅」などの概念の総和を指しているかと思います。

気が向いたら、ご指摘の内容にも考えを巡らせて何か書いてみようと思います。

どなたでもご自由に書き込んでください。
Fully Hatter が愛をもってご返事いたします。


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