26. Joe さん
[2020/09/20 14:57:49 JST(UTC+09:00)]
興味深い記事で、楽しく拝見いたしました。
個人的に「大人」には思うところがあり、コメントさせていただきます。乱文お許しくださいませ。
Fully Hatterさんは
"「子ども」=「親のせいにする人」
「大人」=「自分のせいにする人」"
と定義されましたが、この定義自体に疑問があります。
というのも、この記事への興味として想定されている「大人とは何か?」という疑問に、十分応えられないのではないかと感じたからです。
「大人」という言葉が使われる場面は多いですが、時々によって年齢や経済状況、生活、人格、身体など、様々なことに言及されます。
従って、上述の定義は、「社会的に自立した人間」の定義ではあるものの、「大人」の構成要素の一つに過ぎないと考えます。
議論の進行上、どうしても定義せざるを得なかったのはもちろん理解しております。
しかし、そもそもなぜ「狭義に定めなければならなかったか?」を考えると、そこに「大人」という概念の曖昧さがあり、それこそが正体のヒントではないでしょうか。
私は、「大人」とは「ある社会が、そこ属した個人に求める価値観、欲求」だと考えます。
家庭であれば、家族を支えられる者を。
資本主義社会であれば、それに則って経済活動を行える者を。
(本来の)民主主義国家であれば、主権者として決断できる者を。
企業なら、個人よりも会社の利益を優先できる者を「大人」として求めるところが多いでしょう。しかし中には、個人の成果を重要視し、結果的に企業の利益となればよしとする会社もあります。
一方で、いくら社会の構成員としての立ち回りがうまかろうと、大人と認めてもらえない社会もあります。
極端な例ですが、伝統的狩猟生活を営むような社会では、獲物を独力で取れない限り大人と認めてもらえない場合もあります。
また、通過儀礼というものもあります。
形骸化して久しい日本の成人式ですが、それ以前に執り行われていた元服には、格別の意味が込められていたと聞き及びます。
この元服を経た子どもは、本人の意志とは関係なく「大人」と見なされ、扱われてきました。
特に武家での元服ともなれば、自分が「大人」かどうかを迷う余裕は与えられなかったかもしれません。
以上のように「大人」とは、社会の数だけあるといえます。
そして個人が属する社会の数だけ、求められる「大人」像も多重にあります。
そこに一元的な「理想の大人」像を求めれば、不鮮明で矛盾の滲み出た存在が浮かび上がります。
「大人」に疑問を抱く多くの人は、ここに違和感を覚えるのではないでしょうか。
特に昨今で、は社会の細分化と価値観の多様化に伴い、様々な欲求が噴出しています。
絶対数が増えたため、比較的普遍性のあった「家庭を作る、守る」といった価値観ですら、以前と比べれば目立たないように感じます。
これら全てを内包した一元的な「大人」像があると考えるのは、現実的ではないように見えます。
なので乱暴にいってしまえば、「大人」に定義など存在しないのでしょう。
自分の属する社会や価値観の中で、それとどのように関係するか、あるいは(関係しないという判断も含めて)どの程度関係するか。
これを選んでいく過程で、それぞれの社会や価値観に即した「大人」であるかどうかが判断されていく。これだけの事に過ぎません。
以上から、「大人」とは「社会の個人に対する欲求」であり、個人が信奉する「大人」像とは、実は幻想なのだと考えます。
(続きます
どなたでもご自由に書き込んでください。
Fully Hatter が愛をもってご返事いたします。