あなたは本当に「大人」ですか?

〜我々が人間として生きるために〜

今回のお話は以下のお話に関連しています。以下をまだ読んでない人は先にこちらを読むといいかもしれません。
自由に生きてはいけない

今回のテーマは「大人」です。

このページを開くような人はきっと、「大人」についていろいろ思うところがあるのでしょう。
ですが今回は、わたしが勝手に「大人」の定義を決めます。

「子ども」=「親のせいにする人」
「大人」=「自分のせいにする人」

こうします。

たとえば、赤ちゃんがミルクを飲めずに死んでしまいました。
この場合、赤ちゃんの死はミルクを与えなかった親の責任でしょう。
だから、赤ちゃんは「子ども」です。

人はみな「子ども」からスタートします。
なんでも親にやってもらわなければいけません。
そして、親に「これをやれ」と言われたことをします。
「子ども」は親の言ったことをしているだけなので、その結果失敗してしまったら親のせいにできます。
なぜならそこに「子ども」の意志はないからです。

でもあるとき人は反抗期を迎えます。

これはとても重要な儀式です。
親に逆らうということは、今まで親の責任で行動してきた「子ども」が自分の責任で行動しようとする「大人」へと飛躍する瞬間だからです。
「子ども」が親の言うことと違う行動をした瞬間、「子ども」はその行動の結果をもう親のせいにはできません。
この「反抗」という儀式を経て、人は「大人」へとなっていきます。
(反抗期がない人もたまにいますが、そういう人は親の「これをやれ」という指示に対して自分の責任で行動している、とてもいい子なのだと思います。もしくはまだ「子ども」な可能性もありますが)

以上が「子ども」と「大人」についての簡単な概要説明でした。

本題です。
私の主張は以下です。

『世界中の子どもは、成人するタイミングで自分の国籍を選べなければならない』

(一応言っとくとこれは理想論です。現実にどうやって実現させるんですか? と聞かれると、解決しなければならない問題が多すぎてこのページでは収まらないのでそれはのちほど)

「大人」の話まったく関係ないじゃん、とか思った人へ

どうして我々は法律を守らなければならないのでしょうか?
どうして赤信号を渡っていけないのでしょうか?
人を殺してはいけないのはなぜでしょうか?

それは、法律にそう定められているからです。

では、我々はなぜ法律に従わなければならないのでしょうか?

日本に住んでいるから?
法律によってもたらされる利益を享受しているから?

よくよく考えてみると、そこには理由などないことに気づくはずです。
我々はそれを選んでいないのですから。
そこに我々の意志はないのですから。

つまり、「国家」にとって我々は自分の意志で生きていない「子ども」なのです。

今、日本人の間に生まれてしまった人は強制的に日本国民にさせられ、日本の法律に従わなければなりません。
これは絶対に間違っています。

我々は人間です。
自分の意志で生きる権利があるはずです。
「自分の国籍を選ぶ」ことを通して、今こそ我らは「国家」から自由になるべきなのです。

もちろん、そこでまた「日本人」を選んでもまったく問題ありません。
その場合でも、そこにはその人の意志が存在するので、その人は日本という「国家」から自由になります。
(さっきの例の、反抗期がないとてもいい子のパターンです)

昔、「王さま」は強大な力を持っており、それが当然だとされていました。
18世紀ごろ、市民革命により絶対王政が崩れました。
人類が、「王さまの強大な力」というものは何の根拠もない幻想なのだと気づいたのです。
人類は「王さま」から自由になりました。

昔、「奴隷」は世界中に存在しました。
20世紀になると、法規によって各国が奴隷制度を禁止しはじめます。
人類が、「奴隷」というものは何の根拠もない幻想なのだと気づいたのです。
人類は「奴隷」から自由になりました。

今、多くの人が「国家」というものを当たり前のように受け入れています。
ですが、一部の人は気づきはじめいています。
「国家」もまた、何の根拠もない幻想なのではないか、と。
人類が「国家」から自由になる日も、そう遠くないのかもしれません。


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キング牧師
最大の悲劇は、悪人の圧制や残酷さではなく、善人の沈黙である。


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Comments

1. たかはら さん
[2017/09/21 12:49:00 JST(UTC+09:00)]

毎回色んな刺激をありがとう

「世界中の子供は成人するタイミングで自分の国籍を選ばなければならない」
についてコメント

成人するタイミングである必要性を教えて欲しいかな。単純に年齢的なものだから関係ないのでは?と感じました。
そして、詳しいことは分からないけど、現状自分がこの国の人になりたいとか思ったら帰化できないの?

最後に、例えばだけど、日本にイタリア国籍の人がいて、その人が守るべき法律は日本の法律だよね?
成人になるタイミングで国籍を選んだとして、自由と不自由は何か変わるのだろうか…

※本コメントは議題を深めるためだけのものです。

2. Fully Hatter さん
[2017/09/22 08:49:00 JST(UTC+09:00)]

>> たかはら さん
『成人するタイミングである必要性を教えて欲しいかな。単純に年齢的なものだから関係ないのでは?と感じました。』

その通りです! 実は私も、タイミングには特にこだわりはありません。(「成人するタイミングで」なんてはっきり書いちゃってますがw)
国籍を選ぶのは、成人するタイミングでも反抗期のタイミングでも、たとえば15才でも20才でも25才でもいいと思ってます。
ただ、幼稚園児に国籍を選ばせるのは早すぎるし、かといって60才だといくらなんでも遅すぎだとは思います。

『自分がこの国の人になりたいとか思ったら帰化できないの?』

比較的国籍を所得しやすいアメリカでさえ、その市民権を得るのはかなり大変です。
まず、市民権を得るためには永住権が必要ですが、永住権をゲットするのもそもそも大変です。特別な能力や才能があるか、五千万円程度の投資をするか、アメリカ人と結婚したりしてはじめて永住権が手に入ります。(条件を満たしても取得までに数年かかります。)
さらに、永住権があっても、5年以上アメリカに住み、通常レベルの英語の読み書きや会話ができ、アメリカ合衆国の歴史、公民、政府についての基本的な知識と理解力を持っていなければ市民権は得られません。

『日本にイタリア国籍の人がいて、その人が守るべき法律は日本の法律だよね? 成人になるタイミングで国籍を選んだとして、自由と不自由は何か変わるのだろうか…』

イタリア国籍の人は、日本にいてもイタリアからは自由にはなれません。たとえば、ビザが切れたらイタリアに帰らなければいけません。

3. たかはら さん
[2017/09/22 12:21:00 JST(UTC+09:00)]

回答ありがとう!

だよな、タイミングに関しては興味ないだろうなと思ったけど、気になった(笑

国籍を変えるの大変なんだな…


最後のは俺の質問が悪かったわ…
というか俺の認識が違うのかもだが、国籍を変えるということはその国に移住もするのか?

4. Fully Hatter さん
[2017/09/25 18:36:00 JST(UTC+09:00)]

>> たかはら さん

『国籍を変えるということはその国に移住もするのか?』

現実的には移住もしなきゃいけないでしょう。ほとんどの国は、自分の国民は自分の領土に住むものと想定しているからです。
実は、私が思い描く未来は、誰もが「無条件」に好きな国籍を選べる世界ではありません。現代の大学受験のように、人気の国の国籍を得るにはとても厳しい競走を勝ち抜かなければならないでしょう。
一方で、誰もその国の一員になりたいと思わないような国は滅びるでしょう。
それが、国の本来あるべき形だと思います。

中には、ベーシック・インカムを導入したりして自分の国を選ぶ子どもを増やそうとする国も現れるかも知れません。
人が国から自由になれば、国は人の幸せを本当の意味で追求しなくてはいけなくなります。そうでなければ人はその国から離れていき、やがては滅びます。
いま、多くの国は「民主的」であろうとして 1人 1票の選挙制度を導入していますが、私の世界ではそんな不自然な制度は不要です。なぜなら「民主的でない」国は勝手に滅ぶからです。
(「自分の国のことを本当に考えている人間」と「自分の利益しか考えていない人間」に同じ 1票の価値を持たせるのは、個人的には狂気の沙汰だと思ってます。)

■ 蛇足
さらに理想をいえば、国籍を一つも選ばない、という選択肢も用意されなければならないと思います。
どんな共同体のルールにも縛られたくない人が自由に生きられるような、何の法律も義務も存在しない無法地帯が地球上のどこかにあるべきだと思います。
そうでなければ、本当の意味で人類が国家から「自由」になれた、とは言わないと考えます。
だって、たとえば国が一つになっちゃったら我々は何も選べなくなりますから。

5. 小野瀬 さん
[2017/09/26 03:58:00 JST(UTC+09:00)]

日本でればいいじゃん。最高だよ海外。残念な口うるさいおっさんいないし。
国を選べない、というのが幻想、というかそんな発想日本人くらいじゃね?

6. たかはら さん
[2017/09/26 19:55:00 JST(UTC+09:00)]

なるほどねー。これも正解がない話だから難しいな。

極端な話をするけど、
イスラム国という集団を知っているだろうか?あれは世界中から徐々に志願していく人達がいるよね?社会に絶望した人達、思想が合う人達、色々あると思うんだが、あれは自由だよね。
国籍を選べる、というのは思想の偏りが生まれる可能性を加味したときに、危険なのではないかと思うんだな。
人は一緒にいたいと思う人としかいたくない、という排他的な面がある。国同士の溝は深まるだろうし、戦争はより頻発に起きると思う。全てはバランスが大事かなぁと思う。

※全て僕ちんが思った、個人的な意見です。

7. たかはら さん
[2017/09/26 20:04:00 JST(UTC+09:00)]

>小野瀬
海外楽しいか!!良かったな!!
俺は日本が好きだから、日本出ようとは思わんな。多種多様、好みはひとそれぞれ。とりあえず俺は日本で隣人を愛することにするよ。笑

8. Fully Hatter さん
[2017/09/26 21:10:00 JST(UTC+09:00)]

>> 小野瀬 さん
個人的には(こんなことを言っておきながら) 日本好きです。

あと、日本という国は、国民が自由に外に出られる数少ない国のひとつです。

普通、海外旅行ですら厳格な審査とかがあるものです。
日本人の最強の信用度に感謝すべきではないでしょうか。

たとえば、北朝鮮も海外の国の一つです。
(あんまり書くと殺されそうなので、あえて詳しくはいいません)

たとえば、人口14億人を抱え偉大な歴史を持つあの中国ですら、1997年までは海外旅行にすら行けませんでした。
今でも、中国人が海外旅行をするときには在職証明書や預金残高の提示が求められます。

それが現代の普通なんじゃないかな、と思います。

ただもちろん、そんな日本人としての権利を享受しているからといって、日本人としての義務も果たすことを強制されるのは違うと主張しています。
日本人を自分の意志で選んではじめて、義務は生じるべきと考えます。
どんな権利も、押し付けられたものに価値はないからです。

9. Fully Hatter さん
[2017/09/26 21:12:00 JST(UTC+09:00)]

>> たかはら さん
するどい指摘ですね。
その視点には気づきませんでした。

Fully Hatter が世界大統領とかになったときには、思想の偏りの危険性に気をつけようと思います。

10. 小野瀬 さん
[2017/09/28 12:45:00 JST(UTC+09:00)]

僕がいまの日本で好きなのはパスポートだけです!いやあ本当ありがたい。
北朝鮮と日本、どっちが幸せなんだろうな。自殺率の高さとか子供の虐待件数見ると、日本のほうがひでーんじゃね?と思うけど、まあそれこそ人それぞれか。俺みたいな右にならえができないはみ出し者にとっては日本ほど窮屈な場所ないから、本当時代に感謝しかないw

11. Fully Hatter さん
[2017/09/29 21:39:00 JST(UTC+09:00)]

>> 小野瀬 さん
よかったですね。

個人的には、国外の情報の一切にアクセス出来ず、飢えで100万人が死に、国外逃亡しようものなら公開処刑されるような国が幸せとは到底思えないですけどね。

どの国とはいいませんが。

12. 小野瀬 さん
[2017/09/30 10:10:00 JST(UTC+09:00)]

ん?それって日本だっけ?

13. Fully Hatter さん
[2017/09/30 10:57:00 JST(UTC+09:00)]

>> 小野瀬 さん
お前は日本で何をされたんだww

14. SEN さん
[2020/01/18 22:26:12 JST(UTC+09:00)]

BIの所でお伝えした、お金を無くした世界は、もちろん国家との決別を意味します。というより、フィアットこそが国家の力そのものなので、それが価値を失えば必然的に国家は存在意義を失います。
あまりにも、お金が力を持ち過ぎた今の世の中。加速する格差や争いは全て、その偏向したお金の価値。
全ての人類が、この不条理や制約から自由になるには、お金を無くさなければなりません。
そして、現存の"お金"を新しい価値"新いいね!"に変換させたいです!

https://mobile.twitter.com/4finger_bass

15. Fully Hatter さん
[2020/01/19 11:56:34 JST(UTC+09:00)]

> SEN さん

国家はいらないんじゃないか、のような考え方には基本的には同意です。

『あまりにも、お金が力を持ち過ぎた今の世の中。加速する格差や争いは全て、その偏向したお金の価値』

ちなみに、わたしはこれとは真逆の考えです。
お金の力は徐々に小さくなっていると考えています。
根拠としては、メガバンクのような金融機関の財政状態が悪いことが挙げられます (お金に力があるのならば彼らは最強なはず)。
金利が低すぎて、お金があってもそれを活用する先がないからです。

そして、国家をなくした場合、日本に住む我々にとっては格差は非常に大きくなると考えています。
南米やアフリカなどの格差は日本の比ではありません。
国家がなくなるとは、超々格差社会に生きる彼らと我々との境界がなくなることを意味します。


話がそれました。以下本題です。
「新いいね!」について、ぱっと思いついた問題点は以下ですね。
・国家が担ってきた「お金」以外の機能は誰が担保するのか
・「新いいね!」はどのように実現するのか

国家の機能については、たとえば強盗をした人をどのように裁くのでしょうか?
法律は誰がどのようにして制定するのでしょうか?
独占企業をどのようにコントロールするのでしょうか?

個人的には、国家のようなものは何かしら必要だと思っています。
ただし、その役割は限定的であり、規模や予算はなるべく少ない方がいいとは思います。

「新いいね!」の実現については、それを支えるのは誰でしょうか?
どのような形で実現するのでしょうか?

個人的には、ブロックチェーンの技術を使えば、国家のような後ろ盾がなくても「新いいね!」の実現は可能だと思います。

16. あっちゃん さん
[2020/06/07 11:10:36 JST(UTC+09:00)]

この記事の命題からずれてしまうので失礼かと思いましたが、どうしても意見がお聞きしたくてコメントしました。
「意志」についてです。
この記事を読んで思い出したのは、自分が若いとき「日本にはもう帰るまい」と決意して海外に行き、結局日本帰ってきたという私自身の経験だったのですが、この記事を読むまで、私は「もっと当時たくさんの知識や経験があったらこんな失敗をしなかったのに」と思っていました。
翻って、では当時、もっと知識や経験があったとしたら私は海外に行ったのか?というと、たぶん行かなかったと思います。(後知恵ではありますが。)
こうやって情報の多小が人の意志決定プロセスを左右するとき、情報にアクセスできるようになればなるほど人間の決定のランダム性が低くなっていくということはないのでしょうか?
例えば「負けない投資」とか「絶対売れる広告の書き方」とか、行為の結果の予測可能性を高めたい人って結構いるのではないでしょうか。
「負けない投資」が学べたとして、それをどう実践するかどうかはまた別かも知れませんが、それを学ばなかった人に比べると、特定の行為をする確率が上がることは間違いないように思います。
(失敗しまくった結果学ぶということもあるかと思いますが、それはここの議論では除外し事前に失敗を避けるために学ぶ人を対象とします。)  
何がいいたいかというと、人が特定種類の情報にアクセスできるようになればなるほど、複数の人が行う選択が意志によるもののように見えて、画一化される方向に進むということはないのでしょうか?(間違っていたら教えて下さい。)
投資や広告ならまだしも、それが何か別のものに置きかわっていたら、それは人間にとって幸せなのかなと疑問に思っています。
私たちが「意志」を守るためにできることは何かないのかと思ったとき、「問いを立てる」ことがその答えのひとつと思うのですが、効率の求められる現代にあっては対話すらままならないと感じることがあります。私達はすべての情報に平等にアクセスできるわけではないので、どうやったら自由なままいられるのか、ずっと知りたいと思っています。

17. Fully Hatter さん
[2020/06/07 11:52:30 JST(UTC+09:00)]

> あっちゃん さん
わたしは、選択肢が少ないことと画一化されることはまったく違う概念だと思っています。
以下にその理由をご説明します。

まず、選択肢の意味することは大きく 2つあります。
一つは「選びうる可能性の数」という意味。これは、例えばある局面での将棋の指し手のようなイメージですね。
自分の実現できることの全量を意味するので、この「選びうる可能性の数」が極端に少ない人は不幸です。
奴隷や親から虐待されている子ども、ブラック企業の社員や一部の国の国民はこのような状態に置かれています。
ですので、この「選びうる可能性の数」を増やす行為は大切にすべきだと思います。
例えば、知らない土地にお出かけしてみたり新しい本を読んでみたり、新しい人と会ったりなど。

もう一つの選択肢の意味は「最善手の候補リスト」のようなものです。
これは、例えばプロが将棋の盤面をパッとみて、思いつく 2, 3 の最善手のようなイメージです。
上記の将棋の例を想像してもらえると分かりやすいと思いますが、一番の理想は明らかな最善手が 1つだけある状態です。
ですので、「選びうる可能性の数」を広げることももちろん大切ですが、それ以上に「最善手の候補リスト」を絞り込むこともとても重要です。

たとえばロジャー・フェデラーさん(プロテニスプレイヤー) を例に挙げると、彼は「選びうる可能性の数」は十分にあるので、例えば今日からテニスを一切辞めて卓球のプロを目指すべく卓球に打ち込むことも可能です。
が、彼の「最善手の候補リスト」の選択肢は非常に少ない (明らかな最善手が分かっている) ため、彼は日々テニスをし続けます。
同様に、まわりの人を観察してみれば、幸せな人は例外なく「最善手の候補リスト」の選択肢は少ない傾向にあることが分かるはずです。

そういう意味では、知識や経験を身につけることは「選びうる可能性の数」を広げ、かつ「最善手の候補リスト」をも絞り込むことができる行為であり、画一化とは正反対の最も自由な状態に近づく営みではないでしょうか?

18. あっちゃん さん
[2020/06/07 15:31:48 JST(UTC+09:00)]

お返事ありがとうございました。とても納得です。

多数の意見に流されて生きることに、常にひっかかるものを感じていました。

例えば学びの場で新しいことを学ぶときは「選びうる可能性の数」が極端に少ないので、それを広げたくて質問をしても「言われた通りやりなさい」と言われたりしても、なぜ質問に答えてもらえないのかが納得できずひきずってしまい、実践まで持って行けないことがとても多く、それを「差別だ」、「私を画一化しようとしているだろう」と感じていた部分があります。

でも「言われた通りをやればいい」というアドバイスには3種類あって、その人が私に「選びうる可能性の数」を教えたくないもしくは知らないというパターンはもちろんあるかも知れませんが、「最善手の候補リスト」を教えてくれていてとりあえず実践を促しているパターンや、私が自分で「選びうる可能性の数」を広げていないぞと暗に戒めているパターンも、あったのかも知れません。(あと学校などでは一人にそんな構ってられないということも。)

言い換えると「大人」というのは、「選びうる可能性の数」を広げ、それを自分の頭で考え、実践し、自分自身の「最善手の候補リスト」を作り上げる人、その二つの点において意志の力を発動できる、と理解しました。

「画一化」の責任は、情報にあるのではなくて(当たり前か)、上記二点を怠っているその当事者であり、上記二点さえできていれば、情報の多さはその人にとってさらに有利にになる、ということですね。

時には考えるのが面倒になることもあったりするので何かと耳が痛いですが、とても参考になりました。

有り難うございました!

19. Fully Hatter さん
[2020/06/07 20:07:50 JST(UTC+09:00)]

> あっちゃん さん
またいつでもどうぞ!

20. チュン さん
[2020/08/13 02:53:29 JST(UTC+09:00)]

概念として、理解できます。
細かい説明や手続きを削ぎ落とした説経・講話なので、全ての人に理解を得られる必要はありませんネッ\(^^)
聖出で来て化導利生する

21. Fully Hatter さん
[2020/08/13 07:42:02 JST(UTC+09:00)]

> チュンさん
ありがとうございます。
まあ、理解が得られるに越したことはないのですが、なかなか難しい部分があると思います。

22. ごはんたくぞう さん
[2020/09/11 07:54:44 JST(UTC+09:00)]

Fully Hatter さん、お世話になってます。

> (反抗期がない人もたまにいますが、そういう人は親の「これをやれ」という指示に対して「自分の責任」で行動している、とてもいい子なのだと思います。もしくはまだ「子ども」な可能性もありますが)

僕は親に対する反抗期はありませんでした。いまだに「子ども」です。
僕は上司に対する反抗期もありませんでした。いまだに「社畜」です。
この年になるまで気づかなかったことを後悔しています。気づかせてくれたことに感謝します。

> 『世界中の子どもは、成人するタイミングで自分の国籍を選べなければならない』

理想論はわかりました。そんなにうまくいくかなあ。
文句しか言えない、嫌がらせしかできない人々ばかりの世の中。

「自分の国籍を選ぶ」としたら、やっぱり僕は日本を選びます。
日本大好きなので。いまだに「子ども」なんです。

> では、我々はなぜ法律に従わなければならないのでしょうか?

日本大好きだからです。

> 「国家」もまた、何の根拠もない幻想なのではないか、と。

おっしゃる通りですね。だからこそ、憲法改正が必要だと思います。
日本人が日本人の手で憲法を変えられないのは間違ってる。
日本人が理想の「国家」を作るために、議論すべき。
議論を放棄する政治家には退場してほしい。

23. Fully Hatter さん
[2020/09/12 08:29:05 JST(UTC+09:00)]

> ごはんたくぞう さん
『理想論はわかりました。そんなにうまくいくかなあ』

まあ、現時点ではまったく上手くいく気はしないですね笑
でも、いつかその時はくるんじゃないかな、と予想しています。
そしてそれは、そんなに遠い未来ではない気もしています。
多くのことは理想論からはじまるので、このような理想を思い描く試みにも一定の価値があるのではないかな、と思っています。

『おっしゃる通りですね。だからこそ、憲法改正が必要だと思います』

ちなみにわたしも憲法改正した方がいい派です。

24. ごはんたくぞう さん
[2020/09/12 08:57:30 JST(UTC+09:00)]

お返事ありがとうございました。ポジティブですね。

>多くのことは理想論からはじまるので、このような理想を思い描く試みにも一定の価値があるのではないかな、と思っています。

さらっと心に響くことをおっしゃる。その観点は欠けてました。
もうちょっと考えてみます。後日、全然ちがうこと言うかもしれません。

25. Fully Hatter さん
[2020/09/12 09:04:11 JST(UTC+09:00)]

> ごはんたくぞう さん
またいつでもどうぞ!

26. Joe さん
[2020/09/20 14:57:49 JST(UTC+09:00)]

興味深い記事で、楽しく拝見いたしました。
個人的に「大人」には思うところがあり、コメントさせていただきます。乱文お許しくださいませ。

Fully Hatterさんは
"「子ども」=「親のせいにする人」
「大人」=「自分のせいにする人」"
と定義されましたが、この定義自体に疑問があります。
というのも、この記事への興味として想定されている「大人とは何か?」という疑問に、十分応えられないのではないかと感じたからです。

「大人」という言葉が使われる場面は多いですが、時々によって年齢や経済状況、生活、人格、身体など、様々なことに言及されます。
従って、上述の定義は、「社会的に自立した人間」の定義ではあるものの、「大人」の構成要素の一つに過ぎないと考えます。
議論の進行上、どうしても定義せざるを得なかったのはもちろん理解しております。
しかし、そもそもなぜ「狭義に定めなければならなかったか?」を考えると、そこに「大人」という概念の曖昧さがあり、それこそが正体のヒントではないでしょうか。

私は、「大人」とは「ある社会が、そこ属した個人に求める価値観、欲求」だと考えます。
家庭であれば、家族を支えられる者を。
資本主義社会であれば、それに則って経済活動を行える者を。
(本来の)民主主義国家であれば、主権者として決断できる者を。
企業なら、個人よりも会社の利益を優先できる者を「大人」として求めるところが多いでしょう。しかし中には、個人の成果を重要視し、結果的に企業の利益となればよしとする会社もあります。
一方で、いくら社会の構成員としての立ち回りがうまかろうと、大人と認めてもらえない社会もあります。
極端な例ですが、伝統的狩猟生活を営むような社会では、獲物を独力で取れない限り大人と認めてもらえない場合もあります。
また、通過儀礼というものもあります。
形骸化して久しい日本の成人式ですが、それ以前に執り行われていた元服には、格別の意味が込められていたと聞き及びます。
この元服を経た子どもは、本人の意志とは関係なく「大人」と見なされ、扱われてきました。
特に武家での元服ともなれば、自分が「大人」かどうかを迷う余裕は与えられなかったかもしれません。

以上のように「大人」とは、社会の数だけあるといえます。
そして個人が属する社会の数だけ、求められる「大人」像も多重にあります。
そこに一元的な「理想の大人」像を求めれば、不鮮明で矛盾の滲み出た存在が浮かび上がります。
「大人」に疑問を抱く多くの人は、ここに違和感を覚えるのではないでしょうか。
特に昨今で、は社会の細分化と価値観の多様化に伴い、様々な欲求が噴出しています。
絶対数が増えたため、比較的普遍性のあった「家庭を作る、守る」といった価値観ですら、以前と比べれば目立たないように感じます。
これら全てを内包した一元的な「大人」像があると考えるのは、現実的ではないように見えます。

なので乱暴にいってしまえば、「大人」に定義など存在しないのでしょう。
自分の属する社会や価値観の中で、それとどのように関係するか、あるいは(関係しないという判断も含めて)どの程度関係するか。
これを選んでいく過程で、それぞれの社会や価値観に即した「大人」であるかどうかが判断されていく。これだけの事に過ぎません。

以上から、「大人」とは「社会の個人に対する欲求」であり、個人が信奉する「大人」像とは、実は幻想なのだと考えます。

(続きます

27. Joe さん
[2020/09/20 14:58:59 JST(UTC+09:00)]

続き)

しかしあえて言うならば、社会と自分との関係を自覚したときが「大人になるとき」で、自分が納得する選択を下すことが「大人だと言えること」だと、個人的には思いたいです。
奇しくも、"「大人」=「自分のせいにする人」"というFully Hatterさんの考えと近しいものとなりました。
そういった意味では、"「大人」=「自分のせいにする人」"が、個人にとっての「理想の大人」の一つなのかもしれませんね。

願わくば、自分の価値観に等しい狭い社会だけで完結せずに、自分と関係し共生している周囲の人、さらにその周りの人まで、手が届く範囲でいいから可能な限り「自分の納得」に含められる人が増えればと祈っています。


2コメントにもわたる長文・乱文失礼致しました。
これからのご活躍、影ながら応援しております。

28. Fully Hatter さん
[2020/09/20 16:20:52 JST(UTC+09:00)]

> Joe さん
コメントありがとうございます。
わたしの「大人」の定義について、批判していると見せかけての同意、ありがとうございます笑
わたしのこの「大人」の定義はさらっと書いていますが、実はこれにはわたしなりのいろいろな考えがあります。
Joe さんのコメントを題材に、ちょっとそのあたりについて書かせていただきます。

『私は、「大人」とは「ある社会が、そこ属した個人に求める価値観、欲求」だと考えます』

わたしはこれとは正反対の考えです。
今までは『「社会」が「個人」を所有する』のような考え方で十分世の中を捉えることが出来ていたと思いますが、現代 (とくにここ 10数年) はこの考え方自体が失われつつあるのではないかな、と感じています。
現代は「個人」が大きな力を持っている極めて珍しい時代で、そんな時代によって「社会に所属する個人」という人類史上の大前提 (国家という幻想を含む) が崩れかけているように思います。
もちろん個人は社会の規範に従う必要がありますが、もはや我々はどの社会に属するかを (ある程度) 自由に選べます。
そのような世界においては、「大人」の定義はある特定の社会の規範からは独立したものとして定義可能ではないでしょうか?

どなたでもご自由に書き込んでください。
Fully Hatter が愛をもってご返事いたします。


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